2006年5月31日04:30追記:
-下記「シャルル突進王の遺産」イベント本文の誤訳を修正し、イベント名を変更。
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--1000078
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 #### AGCEEP_HYW_Dauphine.eue ####
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 EVENTNAME12001;スコットランドが王太子を支援;;;;;;;;;;
 EVENTHIST12001;スコットランド王がイングランドに拘束されていたことは、フランスでの戦争の時期全体を通じてイングランド北方の国境を平穏に保てたという点で、ヘンリーにとって非常に好都合だった。しかし、スコットランドにヘンリー進軍の知らせが届いたとき、スコットランド人たちはもしフランスが敗北すれば自分達もいずれ滅亡してしまうだろうことを予見した。スコットランドの摂政は、イングランドに対する明確な宣戦布告を発し、バカン伯率いる7000人もの部隊をフランスに送り、王太子を護衛させることを命じた。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME12001A;新たな同盟だ!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000001;モントローの橋上にて;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000001;ジャン無怖公の元で、ブルゴーニュはフランスのもっとも強力な家臣となり、ますます王家の尊重から独立した振る舞いをするようになっていた。シャルル6世の発狂は、フランスのさまざまな階層の貴族の間で内戦を拡大させていた。ブルゴーニュ派とアルマニャック派はシャルル6世を操り、定期的に権力の座を交換していた。ジャンはオルレアン公ルイをパリの路上で暗殺し、数年後1418年にパリに入城した際には多くのアルマニャック派を虐殺した。これらの事件の生き残りは、王太子シャルルの側についていた。ヘンリー5世と決定的な同盟を結ぶか、王太子シャルルと和解するかで迷っていたジャン公は、モントローで王太子シャルルと会見することに同意した。会見中、感情的な諍いが起きて、ジャンと従臣は切り刻まれてしまった。屈辱的な譲歩という、もうひとつの選択肢もあったのだが…;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000001A;殺せ!;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000001B;王位を確実にするため譲歩しよう;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000016;シャルル6世の遺産;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000016;1422年10月21日、フランス王シャルル6世は完全な隔離病室で死んだ。王太子とブルゴーニュ公が結んだ合意によれば、ブルゴーニュ公は王太子(シャルル7世)を王位継承者として認めるかわりに、代償を得ることになっていた。ブルゴーニュ公はもはやフランドル伯としての臣従をやめ、ソンム一帯の町を与えられた。こうしてブルゴーニュはシャルル7世の王位継承権を認めたが、ブルゴーニュ公は領地のため、シャルルにリップサービスしただけだった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000016A;シャルル7世万歳!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000019;ブルゴーニュがシャルルの権利を否定;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000019;ブルゴーニュ公はパリの支配者として、王太子のフランス王位継承権を否定する命令を発することについて議会の支援を得ている。この侮辱を正すには唯一の方法しかなく、それは反逆者ブルゴーニュ公と対決することだ!;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000019A;これは戦争を意味する!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000020;シャルル7世万歳!;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000020;王シャルル6世の死により、王太子とブルゴーニュ公フィリップは、遺産の正しい分割と和平の可能性を探って交渉を重ねた。王太子はフィリップの父を暗殺した賠償として、係争地だったソンム一帯の町をブルゴーニュ公に与え、フランス王家への臣従から解放するという準備をしていた。この見返りとして、フィリップはシャルルの王位継承権に対する異議を完全に取り下げ、新フランス王に反抗する勢力と戦うことになっていた。これにより、シャルル7世はついに首都に帰還することができ、ブルゴーニュ公は彼の地位を固めるとともにパリから干渉される心配がなくなったのだった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000020A;王国万歳!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000023;シノンの会見;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000023;1429年4月、シャルル7世は非常に危険な状態にあった。トロワ条約、イングランドによる占領、ブルゴーニュ派の敵意は、もしシャルルが王国に強い印象を与えるような奇跡的な成功をすぐに挙げることができなければ、遅かれ早かれシャルル7世の正当性をすっかり奪い去ってしまう準備ができているように見えた。このとき、シャルルはドンレミ出身の若い田舎娘と面会した。彼女は神から遣わされたと主張し、「おやさしい王太子さま」を疑う余地なき王にするためにあらゆる危険を侵す準備ができている、と言った。その少し前、そのような助けが現れるとの予言がなされていた。我々はこの乙女の助けを受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000023A;神の使いだ!;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000023B;羊の世話に戻らせる;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000024;ジャンヌの叙事詩;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000024;シャルルは多くの逡巡の後、この若い田舎娘を常に支持し続けた義母ヨランド・ダラゴンの強い説得により、ジャンヌの助けを得ることに同意した。王国の外にも、その清らかさでイザボー・ドゥ・バヴィエールによって引き起こされた悪を癒すというこの乙女の噂が広まった。しかしながら、ジャンヌの功績は戦争の指揮官としてではなく、シャルルの王位継承を神が助けているという信仰のシンボルとしてのものだった。彼女のオルレアンおよびランスでの成功に伴い士気は高揚し、フランス全土においてシャルルの正当性に対する認知を大きく拡大した。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000024A;イングランド人をフランスから追い出せ!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000025;シャルル7世の塗油式;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000025;1429年のオルレアンにおける士気の大きな高揚を得たシャルルは、常に乙女ジャンヌに説得されていたように、塗油式によって幼いイングランドの競争相手に対して決定的に有利な心証を確実にするため、ランスへ向かった。ジャンヌを名目的なリーダーとして、王の一派はブルゴーニュ支配下のシャンパーニュを歩いて抜け、トラブルなく大聖堂に到着することができた。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000025A;♪天のいと高きところには神に栄光!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000059;乙女の失敗;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000059;6年の無意味な戦いの後、あまりに多くの希望を背負わされた乙女は、その偉大な仕事を成し遂げられないことが明らかになった。今後、皆に見放された役立たずのちっぽけなジャンヌは、王太子の復讐や敵の襲撃から逃れるために、世間から遠く離れた修道院に隠棲しなければならなかった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000059A;そうか;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000061;王太子の死;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000061;シャルルの死に伴い、フランス王太子の座は彼の息子ルイのものとなった。ルイはその外見をよそに、強く才能に恵まれた指導者だった。ルイは父の要求を推し進めるべくすっかり準備していた。ルイにとって、フランスの王位をめぐる戦いはまだ始まったばかりだった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000061A;我々は要求を推し進める!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000065;ブールジュ王国の崩壊;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000065;数回にわたる軍事的敗北のあと、シャルルの大義は混沌とした未来において失われたことがはっきりした。シャルルはフランス南部の領地に幽閉された。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000065A;すべては失われた…;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000066;ブールジュ王国の崩壊;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000066;数回にわたる軍事的敗北のあと、シャルルの大義が失われたことがはっきりした。すでに忠誠を裏切る準備をしていたアルマニャック派の多くは、先祖代々の領地への屈辱的な撤退を「自称」王太子に迫り、シャルルの王位継承権に対する最後の望みは絶たれた。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000066A;すべては失われた…;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000067;シャルル7世の塗油式;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000067;1422年10月21日、フランス王シャルル6世は完全な隔離病室で死んだ。王太子とブルゴーニュ公が結んだ合意によれば、ブルゴーニュ公は王太子(シャルル7世)を王位継承者として認めるかわりに、王国政府を尊重するという大きな譲歩を代償として得ることになっていた。こうしてブルゴーニュ派は、ランカスター家の野望を打ち砕くため、傀儡の主でありつづけた。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000067A;シャルル7世万歳!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000075;シャルル突進王の遺産;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000075;もし、フィリップ善良公の即位が、彼の王位継承権に対する合法性の不足にもかかわらず問題を引き起こさなかったとしたら、ブルゴーニュ家とヴァロワ家の血統がより強固に結びついたように見えたときに問題がおきていただろう。大きな危機は、シャルル王が唯一の娘マリーを残して亡くなったときに始まった。もし、彼女のブルゴーニュ公領やその他の領地に関する相続権が問題にならないのであれば、女性が相続できないとされるフランス王位の継承権についても問題にはならないだろう。誰が最終的な継承権を得るか、まったく明らかではなかった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000075A;シャルルは聖別されたフランス王だ;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000077;シャルル突進王の遺産;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000077;シャルル・ド・ヴァロワは、突進王シャルル7世が亡くなったときにまだ16歳だったが、祖父シャルル6世に連なる家系のために、もっとも正当な後継者となった。非常に不名誉な体形をしていたこの若者は、難しい思春期を過ごし特に知能の発達が遅れている。彼女の姉アンヌ・ドゥ・フランスが、夫であるピエール・ド・ボージュとともにフランス摂政になったのは、これが原因である。もしブルゴーニュ家が、男子相続者の欠如によってフランス王位を失ったとしたら、女性の摂政によって、ヴァロワ家の王位回復が導かれただろう。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000077A;シャルルは聖別されたフランス王だ;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000078;シャルル突進王の遺産;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000078;シャルル・ド・ヴァロワは、突進王シャルル7世が亡くなったときにまだ16歳だったが、祖父シャルル6世に連なる家系のために、もっとも正当な後継者となった。非常に不名誉な体形をしていたこの若者は、難しい思春期を過ごし特に知能の発達が遅れている。彼女の姉アンヌ・ドゥ・フランスが、夫であるピエール・ド・ボージュとともにフランス摂政になったのは、これが原因である。ブルゴーニュ家がマリーとの結婚を強要したので、王国の統一には特に疑問を挟まれなかった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000078A;シャルルは聖別されたフランス王かつブルゴーニュ公だ;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000084;ブルゴーニュ公の要求;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000084;モントローでの合意により、ジャン無怖公はシャルルを真のフランス王太子として認め、王座への唯一の担保として、ヴァロワ家をブルゴーニュ派の手中に納めた。ジャン公はどんなことでも要求できる立場にあった。戦争中のブルゴーニュは、前線に送るためできるだけ多くの兵を望んでいた。王太子派は、ブルゴーニュの戦線に配置されることになった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000084A;王太子派は服従させられた;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000085;アルマニャック派の怒号;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000085;アルマニャック派は王太子がパリから逃げ出した後、唯一の王太子の支持者だった。シャルルは王座を確保できると見て、アルマニャック派の希望をそらし、モントロー合意を行った。これは、ブールジュの宮廷につどう急進派にとってはやり過ぎだった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000085A;くそ!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000087;ブルゴーニュ公の要求;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000087;モントローでの合意により、ジャン無怖公はシャルルを真のフランス王太子として認め、王座への唯一の担保として、ヴァロワ家をブルゴーニュ派の手中に納めた。ジャン公はどんなことでも要求できる立場にあった。ブルゴーニュ公は財政的問題をかかえていたので、よき友人である王太子にその埋め合わせをしてもらうのがちょうどいいと考えた。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000087A;王太子派は服従させられた;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000090;シャルル突進王の遺産;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000090;シャルル・ド・ヴァロワは、突進王シャルル7世が亡くなったときにまだ16歳だったが、祖父シャルル6世に連なる家系のために、もっとも正当な後継者となった。非常に不名誉な体形をしていたこの若者は、難しい思春期を過ごし特に知能の発達が遅れている。彼女の姉アンヌ・ドゥ・フランスが、夫であるピエール・ド・ボージュとともにフランス摂政になったのは、これが原因である。もしブルゴーニュ家が、男子相続者の欠如によってフランス王位を失ったとしたら、女性の摂政によって、ヴァロワ家の王位回復が導かれただろう。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000090A;シャルルは聖別されたフランス王だ;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000103;王太子とオルレアン条約;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000103;王太子シャルルは、トロワで行われたヘンリー5世とシャルル6世の交渉には、招待されていなかったので参加していなかった。父シャルル6世は、モントローで王太子がとった行動に関する知らせを聞き、激怒していた。にもかかわらず、交渉は順調に進み、オルレアン条約が結ばれた。この和平条約は、イングランド王にシャルル6世の娘との結婚を認め、ノルマンディ公領とギュイエンヌ公領の完全な宗主権を安堵するものだった。シャルル6世は、ヘンリー5世がフランス王位継承権を放棄するという成果を得て、オルレアン公とブルボン公はいまや自由の身となった。アルマニャック派の一部は、彼らの封土をイングランド王に与えることになるシャルル6世の領土譲歩に激怒し、この先何年も深い不満を抱くことになった。しかし、オルレアン公とブルボン公の解放は多くの怒れる人々を和らげ、彼らの副官たちは速やかに主君の指揮下に戻った。王太子は、イングランドのフランス王位継承権放棄が、一時的なギュイエンヌ喪失に見合う価値があったと認識しはじめた。ブルゴーニュにとって不名誉なことに、オルレアン公とブルボン公がシャルル6世の宮廷で勢いを増し始めたことは、シャルル6世との和解の当然の結果だった…;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000103A;条約の諸規定を遵守する;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000103B;こんな下劣な条約など知るか!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000106;王シャルル6世の死;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000106;ヴァロア朝のフランス王シャルル6世が亡くなった。彼の唯一の息子、王太子シャルルは、正当な王位継承権を主張するに違いない!;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000106A;それは余の権利だ!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000107;King Charles VI is Dead;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000107;ヴァロア朝のフランス王シャルル6世が亡くなった。彼の唯一の息子、王太子シャルルは、正当な王位継承権を主張するに違いない。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000107A;それは余の権利だ!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000109;シャルル7世の塗油式;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000109;1422年10月21日、フランス王シャルル6世が亡くなった。イングランドなしでは、ブルゴーニュが自身の望みを遂げるためにパリを十分に支配することはできなかった。王太子シャルルは父の死の知らせを聞き、重臣たちと会議を開いた後、フランス王シャルル7世として聖別を受けるためにランスへ向かうことを決意した。ランス大司教とアルマニャック派同盟の残党の固い支援を得たシャルルは、ほとんど抵抗に遭わなかった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000109A;シャルル7世万歳!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000110;フランス王シャルル7世;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000110;フランスは今や、確実にあなたのものです、閣下…;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000110A;フランスは統一された!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000125;オルレアンは宮廷に留まる;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000125;捕虜になったオルレアン公ルイ1世の息子、ルイ・ド・オルレアンは、断固として閣下の側に留まるそうです。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000125A;よし!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000126;ブルボンは閣下の大義を信ずる;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000126;捕虜になったブルボン公ジャン1世の息子、シャルル・ド・ブルボンは、断固として閣下の側に留まるそうです。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000126A;よし!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000128;ヘンリー5世の寛大な和平;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000128;1419〜1420年の作戦からの凱旋の後、ヘンリー5世がフランスで確立した権利を脅かすものはもはやなくなった。しかし、彼は以前に宣言していたのとは逆に、寛大な和平交渉の道を選んだ。ヘンリー5世はオルレアン公とブルボン公の解放の用意をした。どちらもアジャンクールの戦い以降、ロンドンに留め置かれていた。さらにヘンリー5世は、シャルル6世の娘カトリーヌ・ドゥ・ヴァロワと結婚することにした。最終的にイングランドは、ヘンリー5世のフランス王位放棄の代償として、カトリーヌの持参金と2人の公爵の身代金として大金を受け取った。一方で、ヘンリー5世に見捨てられたブルゴーニュは、パリとシャルル6世の両方を支配し続けることができなくなった。王太子とアルマニャック派の指導者は、シャルル6世の身柄を奪回した。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000128A;すばらしい!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000159;ジャン・ドルレアン;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000159;、ロンドンに囚われているオルレアン公シャルルの兄弟にして代理である「オルレアンの私生児」ジャン・ドルレアンが、閣下への忠誠を再確認しました。彼は閣下のフランス王位継承権の正当性を認めています。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000159A;よし!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000160;シャルル・ド・ブルボンがシャルル7世への忠誠を誓う;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000160;ロンドンに囚われているブルボン公ジャン1世の息子であるシャルル・ド・ブルボンが、閣下への忠誠を再確認しました。彼は閣下のフランス王位継承権の正当性を認めています。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000160A;よし!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000168;デュノア伯ジャン・ドルレアン;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000168;「オルレアンの私生児」ジャン・ドルレアンは、ロンドンに囚われている子兄弟オルレアン公シャルル1世の代理を務めていた。ジャンは常にシャルル7世に同情しており、そのため彼は、自身の護衛兵を王太子の支配下に置くのが、もっとよい使い方である、といまや決断していた。シャルル7世はジャンを歓迎し、このとても有能な家臣の支援を仰いだ。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000168A;優秀な指揮官だ!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000169;ドーフィネの継承;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000169;AI EVENT;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000169A;オルレアン家がドーフィネを支配する!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000170;ドーフィネの継承;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000170;シャルルの突然の死により、ヴァロア家の直系は断絶した。継承権の家系はシャルル6世の弟オルレアン公ルイ1世にさかのぼり、彼の直系の後継者シャルル・ドルレアン1世(ルイ2世の父)をたどった。ルイ2世の即位により、オルレアン家がドーフィネを支配することになった。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000170A;オルレアン家がドーフィネを支配する!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000171;ドーフィネの継承;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000171;シャルルの突然の死により、ヴァロア家の直系は断絶した。継承権の家系はシャルル6世の弟オルレアン公ルイ1世にさかのぼり、彼の直系の後継者シャルル・ドルレアン1世(ルイ2世の父)をたどった。自身の相続領地は小さかったにもかかわらず、ルイ2世がドーフィネを相続した。今こそ、オルレアン家自身の継承権要求を復活させ、公領の奪回を目指すかどうか、決断のときだ。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000171A;戦争を起こす余裕はない;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000171B;栄光ある公領を求める!;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000172;バカン伯、ダグラス王、スコットランド人の援軍;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000172;スコットランドのバカン伯とダグラス王は、イングランドに対するシャルル7世の努力のためにもっと多くの兵士を提供するため、フランス使節をスコットランドに連れて行った。そして、シャルル自身も彼らの活発な支援を必要としていた。バカンはすでに、シャルルのフランスでの警護者として、その忠誠心とイングランドへの抵抗の試みによって知られていた。バカン伯がツーレーヌ公に任ぜられるという噂が立ったほど、シャルル7世はバカン伯を気に入っていた。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000172A;おお、さらなるスコットランド人とは喜ばしい;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000179;トロワ条約;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000179A;シャンパーニュとニベルネーは強く圧迫されるでしょう、閣下…;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000180;ニベルネー喪失;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000180;ニベルネーの王太子派の軍勢が降伏した。;;;;;;;;;;
 ACTIONNAME1000180A;その州は失った…;;;;;;;;;;
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 EVENTNAME1000181;シャンパーニュ喪失;;;;;;;;;;
 EVENTHIST1000181;シャンパーニュの王太子派の軍勢が降伏した。;;;;;;;;;;
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