AGCEEPの1419年シナリオについて、百年戦争の歴史的背景と、戦っている国家の紹介と戦略。プレイする国の参考にどうぞ。

(下記はAGCEEP公式サイトの和訳です。)

概説

百年戦争はプランタジュネ・ヴァロワ両王家間の王権争いで、1328年にカペー朝最後の王シャルル4世が世継ぎを残さずに死んだことに端を発している。ヴァロワ・アンジュー・メーヌ伯フィリップが、厳密な会議において、次のフランス王フィリップ6世となることに決まった。この選出の問題点は、フィリップが生存者中の最近縁者ではないことだった。プランタジュネ家のイングランド王にしてアキテーヌ公エドワード3世が、母方の直系の孫だったのだ。プランタジュネ家が王位継承権を主張し始めると、ヴァロワ家はサリカ法典において女子の相続が禁止されているという理屈を持ち出した。プランタジュネ家は、その法律が引き合いに出されたことは未だかつてないし、出すべきでもないと反論した。ヴァロワ家は譲歩を拒否し、こうして百年戦争と呼ばれる争いが始まった。

下記は、1419年の状況にいたるまでの政治的な経過である。

王の発狂

1392年、シャルル6世は森の中で乗馬中に突然錯乱し、4人の従者を殺した上に甥まで殺しかけた。その後、彼は狼のように吠えながら、王宮の廊下を走り回った。彼の被害妄想のひとつは、自分自身がガラスでできており、近づく者すべてが彼を粉々にしようとしているというものだった。彼の錯乱状態は時々治まったが、やがて正気でいられる時間は次第に短くなっていった。

フランス支配層の分裂

シャルル6世が発狂している時は、ブルゴーニュ公フィリップがフランスを治めた。彼は王家の年収の1/6〜1/8を自分の懐に入れた。シャルル6世が正気の時は、彼の兄弟であるオルレアン公ルイが統治した。ルイは伯父のフィリップと同じくらい強欲非道な男だった。ルイは自身のイタリアでの野望を達成するために資金を流用した。彼の野望とは、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの跡取り娘である妃のヴァレンティナを通してミラノ公位を手に入れることだった。彼は新たな税を課し、黒魔術にのめりこんでいるという噂も立ったため、フィリップよりも嫌われるようになった。フランス人たちは二つの軍勢(アルマニャック派とブルゴーニュ派)に分かれて対立しはじめた。これは30年続くことになる恐ろしい内戦の萌芽であり、フランスはイングランドに翻弄されることになった。しかし、さらにおよそ20年が経過するまで、戦闘は勃発しなかった。

イングランドでの出来事

専制的なリチャード2世は、彼の家臣たちの多くの願望に反して、フランスと恒久的な和平を結び、プランタジュネ家の王位継承権を取り下げようとした。リチャードはシャルル6世の政府と休戦協定を結んだが、結局は君主としての一線を踏み越えてしまった。そのため、貴族たちはリチャードを退位させ、ランカスター家のヘンリー・ボリングブルックをヘンリー4世として即位させた。ヘンリー4世の地位はおおむね、フランス王位とイングランドの利益のための戦争を強く支持する貴族の一派に依存していた。彼は休戦状態を取り止めたが、不安定さとフランドル交易からの収入減少のために、フランスでの軍事行動は行えなかった。

ヘンリー4世に対するオルレアン公ルイの反応

オルレアン公ルイがヘンリー4世の抱えている問題に気づかないということはなく、1402年、この状況を利用して、シャルル6世の幼子にギュイエンヌ公位を与えた。その爵位は既にヘンリーの息子ウェールズ公(後のヘンリー5世)に対して与えられていたものだったので、大きな挑発となった。1405〜1407年、フランスは(一連の敵対行動として)イングランドとギュイエンヌにおけるイングランドの支配地域に対し、攻撃を仕掛けた。フランスは最終的にその狙いをあきらめた。(都市の多くが、より多くの自由とより少ない課税を享受できるイングランドの支配を求めたためである。)

アルマニャック派とブルゴーニュ派の対立

1404年4月、豪胆公ことブルゴーニュ公フィリップ2世が死ぬと、息子の無怖公ことジャン1世が後を継いだ。無怖公という呼び名は、1386年のニコポリ十字軍での彼の勇敢な行動からついた。オルレアン公ルイとジャン1世は、ほとんどの主要な問題について対立していた。ジャンがフラマン人臣民を喜ばせるためにローマ教皇を支持した一方で、ルイはアヴィニョン教皇を支持していた。ジャンは、国庫への負荷を理由としてイングランドとの戦争に反対したが、ルイはイングランドを憎んでいた。2人の公爵が宮廷で言い争っている間、彼らの支持者達は街頭で乱闘していた。緊張は高まり続け、そしてジャンは1407年11月、ルイが王妃を訪れた帰り道を待ち伏せし、暗殺した(ルイの手は悪魔を呼び起こさないように切り落とされた)。アルマニャック伯ベルナルドが、ルイの死後リーダーとして立った。フランスは完全に分裂した。ブルゴーニュ派がパリの中産階級や知識層から力を得ていた一方で、アルマニャック派は、官吏の大部分とジャンの影響を受けていない貴族たちの大部分から支援を受けていた。

フランス内戦

ジャンはオルレアン公ルイの暗殺について、王の恩赦を得ることと、パリに賄賂を贈って支配することで対処した。アルマニャック派は、軍隊の編成とパリの封鎖という行動でこれに応じた。ジャンはその後、ヘンリー4世の助力を得て、1411年に封鎖を破った。アルマニャック派はヘンリーに対し、1369年にしたのと同様アキテーヌ領の割譲と、さらに20の要塞をすぐに放棄することを提案した。しかし1412年5月に、ブルゴーニュ派の陸軍は優位に立ち、アルマニャック派に降伏を強要した。この後は、両者とも、そのような合意をすべて拒否した。このことに対する反応として、クラレンス公率いるイングランド陸軍は、賠償金を手に入れるまで騎行(略奪行)を続けた。ジャンは、フランスの地位が弱くなっていることを見て、イングランドの侵略が現実になることを恐れはじめた。彼は防衛のための新税を課すために三部会を招集したが、彼らがジャンを批判し始めると、ジャンはアルマニャック派と富裕層に対して恐怖政治を敷いた。

王を誘拐しようという試みが失敗に終わり、パリ支配の失敗が明らかになってくると、1413年8月にジャンはパリを放棄した。一方でイングランドでは、ヘンリー5世がイングランド王に即位した。

フランス内戦とヘンリー5世

1414年までに、アルマニャック派との戦争は、ブルゴーニュ派の形勢不利に傾いた。ジャンは再びイングランドに支援を求めた。ジャンはアングーモアと、ガスコーニュの指導者達の領地を提示した。ヘンリーはこれに対し、エドワード3世が勝ち取った全ての土地に加えてベリーの割譲と、ヘンリーをフランス王として認めることを要求し、ジャンを愕然とさせた。ヘンリーはジャンと交渉する一方で、アルマニャック派とも交渉していたのだ。交渉は続けられたが、会談のたびにヘンリーの要求が増えていったので、夏の半ばまでに決裂した。前年から戦争の準備を進めていたヘンリーは1415年8月、かつてのエドワード3世同様にフランスに侵攻するとともに、国王とその一族に対してプランタジュネ家の旧領地を要求した。

政争とヘンリー5世のフランス遠征(ネタバレ含む)

ヘンリーがノルマンディとコーの領地を固めていた一方で、ジャンは1418年にパリを奪還した後、再びアルマニャック派と交渉しようとした。また、ジャンは1417年、シャルル6世を担いだ対立政権をトロワに樹立した。アルマニャック派(傀儡に近いとはいえ、王太子が公式なリーダーとなっていた)はようやく、会合を持つことに同意した。モントローの橋の上での会談で、アルマニャック派は王太子の指示によりオルレアン公ルイ暗殺への報復を果たし、ジャンを切り刻んだ。(1419年9月)

新しいブルゴーニュ公となったフィリップ善良公は、自身をヘンリーの味方だと堅くみなしていた。1420年5月、フィリップとヘンリーはシャルル6世とイザボー王妃の立合いの元、トロワ条約に調印した。この条約において重要なのは、ヘンリーがノルマンディ公として認められたことと、王妃が「王太子は王妃の愛人の息子である(嫡子ではない)」と宣言したことである。ヘンリーはフランスの王位継承者であり、フランス王国摂政であると宣言された。いくつかの町がアルマニャック派に忠誠を誓ったことを除けば、ロワール北方ではトロワ条約に対する抵抗はなかった。ヘンリー5世の死と、ベッドフォード公がロワール地方の王太子(アルマニャック派)政府殲滅に失敗したことによって、かろうじて王座の統一は妨げられた。

各国家の紹介と戦略

ブルゴーニュ

ブルゴーニュはキングメーカーとしての役割を果たします。イングランドの勝利を可能にするのはプレーヤーの支援です。しかし、もしプレーヤーが王太子とイングランドを互いに争わせ、どちらも勝利を得られないようにできれば、1461年の王太子の死に際してプレーヤー自身が王位を要求する(フランスになる)選択肢もありえます。この選択肢は、ブルゴーニュがそれ以前にブリュッセルに遷都してオランダ文化を得ている時でも選択可能です。したがって、これは非常にありそうもないことですが、ブルゴーニュが古代のロタール王座を要求し(まずありそうにない)、ブリュッセルに遷都してオランダ文化を得たのちに、王太子とイングランドの勝利を阻止することで超フランス国家になることも可能です。本当に非常に難しいことですが。

ドーフィネ(王太子シャルル/ヴァロワ家)

この国は、アルマニャック派とヴァロワ家の王太子(史実における後のシャルル7世)の支持者を表しています。史実のフランスを再現したいプレーヤーは、この国をプレイしましょう。イベント群は、できるだけ史実に即した展開を望むプレーヤーのために、ヒストリカルな選択が最初の選択肢となるように書かれています。初期は軍事的に本当に貧弱なため、イングランドの序盤の攻撃を生き延びてブルゴーニュを味方に付けることが、プレーヤーの最初の目標になります。もし、1430年頃になってもイングランドが優勢を保っているようなら、ジャンヌ・ダルクの登場がイングランドの攻勢を押し返す手助けとなるでしょう。ジャンヌ・ダルク関連の一連のイベントには、(一部の説によれば)史実に反することですが、彼女を指揮官として登場させる選択肢も含まれています。

イングランド(プランタジュネ家)

イングランドプレーヤーにとって最良の行動は、軍事的に敵を叩き潰すことと、ヘンリー5世を有効活用することです(彼は1422年末に亡くなってしまうため)。ブルゴーニュの傀儡政権(フランス)を早めにノックアウトすることを、最初の主要な目標にすべきです(1421年の終わりまでに分離和平を結びましょう)。

これに成功すると史実に基づくトロワ条約イベントが発生し、プレーヤーはフランス王位継承者として認められ、ブルゴーニュと同盟を結べます(できるだけ長い間、ブルゴーニュからの支持を保つよう行動すべきです)。また、条約の諸規定によって、シャルル6世が1421年12月に亡くなる時に、プレーヤーは残りのフランス領を継承できます。王太子に対しては、和平を結ぶことを避けましょう。ひとたびトロワ条約を発動させた後は、王太子領の州をすべて支配(control)することを目標にしましょう。そうすれば、王太子はあなたを王として認めます。イングランドの勝利には他のルートもありますが、この流れを目標にすべきです。長く待てば待つほど、成功の望みは少なくなっていきます。

フランス(ブルゴーニュの傀儡)

※プレイ不可。

シナリオ開始時点におけるフランスは、ほとんど発狂してしまったシャルル6世を取り巻く傀儡政権を主に表しています。ほとんどのプレイにおいて、フランスは1420年代の初めにトロワ条約の一部として併合されてしまうでしょう。この国をプレイ可能にすると、かなり急速に架空の状況になってしまうのです。


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Last-modified: 2006-12-28 (木) 22:19:01 (4041d)