このAARは、イスラム帝国への道の続編にあたります。西側イスラム世界を統一したイスラム帝国がペルシア地方へと進出し、迫り来るモンゴル帝国と激戦を繰り広げる様を描いていきます。

使用国:マムルーク朝
環境:英語版1.09+MES0.35a 1.09対応版
シナリオ:1150グランドキャンペーン
難易度:非常に難しい
AIの攻撃性:臆病

目次

プロローグ

時は西暦1243年、7代目皇帝サーリフの御世、極東の大国、宋がモンゴル帝国の激しい攻撃を受け、存亡の瀬戸際に立たされている中、アイユーブ朝イスラム帝国は束の間の平和を享受していた。

4代目皇帝アル・アーディル1世が、ルーム・セルジューク朝に対して行った北方戦争以降、帝国は拡大の意志を持たなかった。 アイユーブ朝の初代皇帝サラディンは、かつてイスラム帝国と謳われた、アッバース朝最盛期の領土をひとつの王朝のもとに束ねることを最終的な目標にしていたといわれている。 サラディンはムワッヒド朝を降し、西方を制した。 アル・アーディル1世はルーム・セルジューク朝を降し、北方を制した。 しかし、東方、ペルシアへの遠征は、サラディンがタバリスタン州レイを攻略して以来、全く手付かずの状態であった。

5代目皇帝アル・カーミルの治世を経て、帝国はかつてと比較にならないくらい豊かになった。なるほど帝国はまだアッバース朝期の領土には達していない。ペルシアはおろか、アラビア半島さえ統一できていない。しかし、多大な戦費を費やしてまで地味に乏しいこれらの地域を征服する必要があるだろうか。セルジューク・トルコ崩壊後、ペルシアはホラズム王国とゴール朝による勢力均衡によって半世紀以上平和を保っている。ペルシア、アラビアには手を出さず、国内のインフラを整備する―これがアル・カーミル、そして帝国諸侯にとっての「常識」であった。

しかし、今、その「常識」は打ち破られようとしていた。モンゴル帝国の存在によってだ。

始祖チンギス・ハーンが1227年に没した後も、モンゴルはその勢いを失わず、ヨーロッパではモルダヴィアを直轄化、ハンガリーやルーシ諸国にまで戦線を拡大している。そして、ペルシアにおいては長年ホラズム王国と勢力を二分してきたゴール朝がモンゴルによって征服され、属国化されるという事態が起こっていた。最早傍観は許されない。ゴール朝支配下だった南ペルシアのムスリムはモンゴルによって大量殺戮された。次はホラズムか、はたまた我がイスラム帝国か。ペルシア情勢は風雲、急を告げていた。新たな英雄が、必要とされていた。

西暦1243年の世界情勢
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黄線がイスラム帝国。アイユーブ朝の属国は帝国構成国とみなします。ムルシア、キレナイカ、ルーム・セルジューク、アゼルバイジャンがこれにあたります。赤線がモンゴル帝国。モンゴルを宗主国として、ジュチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、ゴール朝の3属国によって構成されています。モンゴル帝国は、ユーラシアの半分以上を支配し、経済力においても我がイスラム帝国の2倍以上、圧倒的な勢力を誇っています。チートじみた軍隊の強さも健在。ホラズム、ゴール朝が緩衝となって、長らくモンゴルとは関わり合いにならずに来ましたが、ゴール朝をとられたことでペルシア統一にはモンゴルとの戦争が不可避の状況に。極東では冒頭で触れた通り、宋と戦争中。宋が併合されるのも最早時間の問題でしょう。モンゴルこわいよ、モンゴル。ちなみにヨーロッパはというと、中欧のビリジアン色がホーエンシュタウフェン家で最大勢力(見づらいがハンガリーもちゃんといるよ!)、次点はイベリア半島のカスティリアといったところでしょうか。フランスが分裂状態でドイツ・フランスは史実とは真逆という感じですね。

現皇帝サーリフは、現状を正しく認識していた。1238年にアイユーブ朝の全盛期を現出した偉大なる皇帝アル・カーミルが没すると、帝位はその子、サファディンが継いだ。6代目皇帝、尊称アル・アーディル2世。アル・アーディル2世は、放蕩の限りを尽くし、帝国諸侯や民衆の反感を買った。アル・カーミルの庶子であったサーリフは、これを好機と見、1240年、帝国諸侯と共謀してアル・アーディル2世を廃位、自身が帝位についた。

皇帝となったサーリフは、モンゴルに対する防衛力を強化するために、長らく属国であったルーム・セルジューク朝を併合(ゲーム上は外交併合)。モンゴルと接する帝国北辺を直轄化し、要塞化を進めた。さらに、「マムルーク」と呼ばれるトルコ人奴隷を、私財を投げ打って購入、対モンゴル戦用の軍隊の育成を進めた。12世紀に、ヌラディンやサラディンが用いた騎兵隊は世界でも有数の力を誇っていたが、13世紀に入り、戦争が消え、平和を手に入れた代償として帝国軍は今や著しく弱体化し、このままモンゴルとの戦争に突入した場合、帝国の敗北は不可避であろうと考えられた。サーリフは精強な軍隊を再建し、モンゴルと戦う地力をつけようと必死だった。彼はあちこちに兵舎・訓練場を建設したが、ナイル川(バフル・アルジャバル)に建設された兵舎にちなんで、特に、彼の子飼いのマムルーク軍団は「バフリーヤ」と呼ばれるようになっていった。

西暦1248年、サーリフの施策が実りを迎えようとしている頃、十字軍が襲来する。率いるはフランス王ルイ9世、ターゲットは帝国中心部たるエジプト。フランス王家は、この世界においては史実とは異なり、ヨーロッパの少領主に過ぎないが、モンゴルの脅威が目前に迫る中、帝国軍は主に国境警備にあたっており、エジプトにはサーリフ子飼いのバフリーヤを中心とした一軍があるのみだった。さらに悪いことは重なるもので、総司令官たる皇帝サーリフは病に倒れ、翌1249年には病没してしまう。

帝国にとって、これはまったく想定外の出来事で、実際、代わって指揮を取るべき皇太子トゥーラン・シャーはバグダードにあり、すぐさまエジプトに駆けつけることはできなかった。この事態を収拾したのがサーリフの妻、シャジャル・アッ=ドゥッルであった。彼女は類まれな美しさの持ち主で、見識があり、抜け目がなく、知性的で、かつ、卓越した政治的手腕を兼ね備えていた。シャジャルは軍の動揺を防ぐためにサーリフの死を隠匿し、まだ彼が生きているかのように食事を運ばせる傍ら、自らが夫の名代として政事の決裁を行った。続けて、サーリフの名によって軍を動かし、フランス軍を撃退した。これによってシャジャルは、サーリフ子飼いのマムルーク軍団バフリーヤの絶大な支持を集めた。

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シャジャル・アッ=ドゥッル。絶世の美女。

戦いが終わり、ようやくカイロに到着した皇太子トゥーラン・シャーは、8代目皇帝に即位した。シャジャルとトゥーラン・シャーは継母の関係にあり、その関係は必ずしも良好とは言えなかった。特に、シャジャルはこの10年余り、夫サーリフの側にあって、彼を支え、彼とともに対モンゴル戦を想定した数々の事業を進めてきたという自負があった。一方、まだ若き皇帝は、十字軍との戦いに参加できず、主導権を継母や父の子飼いのバフリーヤに奪われてしまったという思いから、主導権を取り戻そうと必死であった。

やがて二人は、シャジャルがサーリフの財産を握って実権を譲らないことから仲たがいし、また、若き皇帝は、バフリーヤを信頼せず、その有力者を投獄したり、自身の側近を取り立てたりしたために、事態はいよいよ深刻な局面に至った。

1250年、シャジャル・アッ=ドゥッルはマムルーク達を動かしてトゥーラン・シャーを殺害する。実行にあたったのは、バフリーヤの将軍バイバルスという若者だった。こうして、名実ともにアイユーブ朝を滅ぼしたシャジャルは、マムルークの有力者が王位をめぐって策動するのを退け、バフリーヤのマムルークの推戴を受けて、同年4月に「サーリフの僕、ハリールの母」の称号で自ら皇帝に即位した。

マムルーク朝の、誕生であった。

第一章バイバルスの時代(1250-1277)

帝位へと至る道

バイバルスはエジプトから遠く離れた、黒海北方のキプチャク草原に居住する遊牧民族キプチャクの出身である。14歳ごろにモンゴル軍のアナス・ハーンに捕らえられ、アナトリア半島のスィヴァスで奴隷商人に引き渡された。

モンゴル軍の進攻の後、中東の奴隷市場は供給過多と言える状態になり、バイバルスの買い手はなかなか現れなかった。彼の肌が褐色で、片目に白内障の斑点があったからだ。紆余曲折の末、彼はアイユーブ朝のアミールであるアイダキーン・アル=ブンドクダーリーによってようやく購入され、奴隷身分から解放された。

1246年にバイバルスはアイダキーンに従ってカイロに移り、サーリフ直属のマムルーク軍団であるバフリーヤに編入された。サーリフの下に入ったバイバルスは20歳頃に連隊長の地位に昇進する。バイバルスは天才的な軍事的才能の持ち主で、帝国各地の反乱鎮圧、治安維持によって着々と軍功を重ね、若くして、バフリーヤの中でも一目置かれる存在となっていった。

1249年、フランス軍のエジプト侵攻の折には、サーリフ崩御、総司令官不在の悪条件の中、シャジャル・アッ・ドゥッルとともに十字軍撃退において決定的な役割を果たし、バフリーヤの有力者のひとりとなった。

フランス軍撃退後、新帝トゥーラーン・シャーとマムルークの対立が決定的なものとなると、バイバルスはバフリーヤ軍団の長アクターイ、カラーウーン、アイバクらとトゥーラーン・シャー暗殺を企てる。1250年5月2日にトゥーラーン・シャー暗殺が決行され、最初にバイバルスがトゥーラーン・シャーを斬りつけた後にアクターイが致命傷を与え、計画は成功を収める。

こうしてアイユーブ朝は滅亡した。

トゥーラン・シャー亡き後のイスラム帝国は、あたかも軍人皇帝時代のローマ帝国のようであった。バフリーヤの中で、皇帝にふさわしい実力者は、トゥーラン・シャー暗殺に携わった四人。アクターイ、カラーウーン、アイバク、そしてバイバルス。彼らはいわば四天王というわけだ。亡き皇帝サーリフの権威のもと、これら四人の野心をおさえ、はじめに皇帝となったシャジャルは、マムルーク朝を創設し、新政権をスタートさせたが、やはり女の身で中世の大帝国を統治することは困難で、パートナーを必要とした。このシャジャルに近づいたのが、アイバクであった。彼はシャジャルと結婚すると、彼女から帝位を譲りうけ、皇帝となる。皇帝となった彼は、自身の最大のライバルであったアクターイを殺害、カラーウーンとバイバルスの二人はアイバクの魔の手が迫る目前で、辛くも帝都を脱出した。

アイバクはその後シャジャルとともに、数年政権を維持するが、西暦1257年、些細な行き違いから両者は決定的に対立し、シャジャルがアイバクを暗殺、アイバク麾下のマムルークが報復にシャジャルを殺害するという事態に発展し、帝都カイロは権力の空白地帯と化した。アイバク亡き後、帝位にはアイバク麾下のアリーがついたが、これは同僚マムルークのクトゥズによってすぐに排され、クトゥズが12代目の皇帝となると、事態はいよいよ収拾がつかなくなってきた。

西暦1260年、これを好機とみたバイバルスは自ら子飼いのマムルークを集結して挙兵、カイロに入り、クトゥズを打倒し帝位につくと、最後の有力者であったカラーウーンを殺害した。こうして、血で血を洗う権力闘争の末、バイバルスを除くマムルークの有力者は皆無となった。

1250年にサーリフが崩御してからの10年は失われた10年と後に呼ばれるようになる。壮絶な戦いを経て、奴隷の身分から皇帝へと駆け上がったバイバルスは、その権力を確立し、そして維持するために新たな戦争を、新たな勝利を、そして新たな領土を切望していた。そしてそれはペルシア以外にありえなかった。ホラズムを征服し、無敵のモンゴル帝国からゴール朝を解放する―皇帝バイバルスの手腕が今、問われようとしている。

西暦1260年の情勢
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Last-modified: 2013-10-28 (月) 23:00:46 (1455d)