非戦期(断じて休眠期ではない)

 1471年以降、我が国は長い戦間期を迎えていた。ポルトガルとの地図交換やアフリカの正教国の属国化、ペルシャとブラジルへの入植、ガレー船の建造、ティムール崩壊防止工作といった事をしながら欧州での拡大の機会を虎視眈々と狙っていたのである。

 技術開発はインフラと貿易をLV2にして以降、(進みすぎペナルティーを回避する意味でも)一貫して陸軍に全振りしており、1472年にはレベル3になっていた。これは西欧諸国に引けをとらない強さであり、金鉱とCOTの収集がこの技術開発の速さを生み出している。

6月 1, 1482 : 自由を愛する ファールスの反逆者は ティムール帝国を叛き、 我が国に亡命しました。

 この土地は既に飛び地となっていたため崩壊しない様に陸軍を動かすだけで手に入った。植民地と合わせノヴゴロド領ペルシャは6州となり、ペルシャ民族の故地が手に入ったことによりペルシャ人はますますノヴゴロド内の少数民族としての印象が強まった感じがある。

再び戦争へ

7月 23, 1478 : ブレーメンはデンマークに対し、 宣戦布告しました。
7月 23, 1478 : ポンメルンは、ブレーメンと共に デンマークとの戦争に参加しました。
7月 23, 1478 : プロイセンは、ポンメルン と ブレーメンと共に デンマークとの戦争に参加しました。" 
7月 23, 1478 : ドイツ騎士団は、ポンメルン, ブレーメン と プロイセンと共に デンマークとの戦争に参加しました。
7月 23, 1478 : スウェーデンは、デンマークと共に ポンメルン, ブレーメン, プロイセン と 
ドイツ騎士団との戦争に参加しました。

 ティムール領から押し寄せてくる反乱軍への対応にかまけていたせいで、この出来事に実際気付いたのはエチオピアとの同盟が切れて更に経った1481年になってしまった。デンマークとの同盟(参戦)に至ってはその翌年になるありさまだった。

プロイセン戦.jpg

 狙うはプロイセン領ダンツィヒ(COT)だが、同盟主による講和を恐れ分離講和を先に狙う方針で行く(こんなことをすると折角の防衛戦争なのに割譲時BBRを余計に増やしてしまうのだが)。野戦で勝利を重ね、1483年12月に分離講和する。

 次いでプロイセン領内での戦いを開始。ガレー船十数隻にまで増えたバルチック艦隊は充分な運搬能力を有する。ドイツ騎士団領内にあった分とあわせて大量の歩兵を流し込むことで、プロイセンの戦力を殺ぐ。

 このプロイセンはポーランドやボヘミアから領土を奪い取っており、初期から拡大していた。だが多くの海外領土に交易中心地と金鉱を有する経済大国でありなおかつ安い(だが弱い)歩兵が大量に手に入る我が国にとっては敵ではない。見る間に全土を占領し、1487年5月30日、ダンツィヒの割譲と賠償金と通行権献上を条件に講和。

 これで我が国のCOTは5つになった。

もうやめて、ドイツ騎士団のライフはもう0よ!

6月 8, 1487 : デンマークはブレーメンに対し、 宣戦布告しました。
6月 8, 1487 : スウェーデンは、デンマークと共に ブレーメンとの戦争に参加しました。
6月 8, 1487 : ポンメルンは、ブレーメンと共に デンマーク と スウェーデンとの戦争に参加しました。
6月 8, 1487 : プロイセンは、ポンメルン と ブレーメンと共に デンマーク と スウェーデンとの戦争に参加しました。
6月 8, 1487 : ドイツ騎士団は、ポンメルン, ブレーメン と プロイセンと共に デンマーク と 
スウェーデンとの戦争に参加しました。
6月 8, 1487 : ノヴゴロドは、デンマーク と スウェーデンと共に ポンメルン, ブレーメン, プロイセン と 
ドイツ騎士団との戦争に参加しました。

 誘われたからついやっちゃったんだ♪後悔はしていない。

 空気を読んだ続けざまの同じ相手との戦争である。参戦を拒否して安定度マイナスされるのもちょっと気分がよくないと思ってしまったのである。しかたないので今回はプロイセンと即時白紙和平し、ポンメルンへも兵を侵入させただけで白紙和平して、ドイツ騎士団を属国化することだけを目標とした。

 同年9月、ザクセンがデンマークに対し宣戦布告し、クレーフェ・ケルンが参戦。このときは参戦を拒否した。

 ドイツ騎士団は正教徒にもひどいことしたよね?というわけで、お仕置きと称した一方的かつ合法的なスーパーリンチタイムの始まりである。一度デンマークとスウェーデンに全土を包囲されて兵を失っているので、大した抵抗はなく、全ての敵城は見る間に落とされていった。

 1489年5月6日、戦争のたびに何度もノヴゴロド軍の通り道にされてきたドイツ騎士団は、この時からノヴゴロドの恒久的な通り道兼金づるとしての運命を約束された。

大妨害時代の始まり

 ドイツ騎士団攻略と並行して、スペインへ賄賂を贈り通行権を得る。これによって来るべき大航海時代に快く茶々を入れることが可能となった。

 1490年、コロンブスが頑張りすぎて既にバルバドスにスペインが交易所を作ってしまっている。すぐさまブラジルで徴兵した兵を送って原住民を挑発、破壊した後すぐに代わって入植を始めた。

 更にマルティニークも黄色くなっていたが、原住民は全滅させられていたため、ここは横取りできなかった。

 1492年8月4日にはスペインと地図を交換し、カリブ海のかなりの部分に到達できるようになった。早くもマヤ・アステカを発見している。同年プエルトリコとカリベの交易所も破壊。翌年は、クラサオ、カルタヘナ、パナマ地峡、モロン(キューバ)、再びプエルトリコと息つく暇もなくスペインの入植を邪魔する。コロンブスとカトリックがこの地域の人々に対してやってきた事を考えれば当然の報復だろう。コンキスタドーレスの代わりにポモールィ*1に支配された方が原住民にとって幸せなのは間違いない。

大妨害戦争

 1496年12月スペインがモロッコへ宣戦布告。これを口実に我が国は山吹色の菓子を手土産にモロッコへ急接近、翌年3月には同盟を組んでスペインとその同盟国ポルトガルと戦うこととなった。

西インド戦線.jpg

通行許可を持っている場合、要塞のない州は海軍を停泊させるだけで降伏する。

 この戦法でスペイン領ジャマイカとポルトガル領ザンベジア(東アフリカ)は落ちた。どちらにせよ植民地には敵陸軍はなかったので、単純に行進するだけで戦勝点を稼ぎ、あっという間に新大陸における勢力範囲は一変した。

 新大陸の他、ノヴゴロドはCOTのあるザンベジア州(植民地)を4%の戦勝点で入手している。

牙を磨く

陸軍技術.jpg

 我が国の陸軍技術はラテン技術グループ各国に引けを取らない。前述の通り高収入の州を集めてきた結果だ。

 一方スペインは欧州の片隅にある殆どアフリカみたいな田舎と言って過言でない低レベルに留まっている。実際にこの遅れはアフリカへの領土拡張が原因だったりする。

 トップは恐ろしいことに明であり、どうやらイベントで海外へ拡張する選択肢をとったらしく技術グループがイスラムになっているようで(バニラでは初期技術グループが中華でイベントにより変化する)、インドにも入植しているのが見える。

 ヨーロッパでは1州しかない国々がトップの技術を持ち、国内を早々に統一して巨大化しているフランスも同じ位になっている。

 CRTが上昇するLV9への到達の時は近く、このタイミングでスペイン本土を狙う事になる。運命の時は間もなくだ。



*1 ノヴゴロド共和国時代に白海沿岸に入植してきたロシア系の人々

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2011-07-29 (金) 09:01:25 (2544d)