我らがノヴゴロド共和国はノヴゴロド・ロシア(Новгородская Русь)へと変体した以降も、ボヘミア・メクレンブルク・ザンジバル・ハンガリー・インドへと拡大の勢いは止まる事を知らなかった。

フランスいじめ

 領土拡大によるBBR上昇でついに安定度ペナルティーが大きくなってしまったため、ハンガリーを独立させてBBRを3下げた。オーストリアの中核州であるため襲われるのは時間の問題だろう。

 1549年12月にはムガル戦時に放置していたメクラーンが我が国へ亡命。

 翌1月には白兵戦能力が4もあり包囲能力まで持つヴォロティンスキー公が登場。彼はこれからの戦いで引っ張りだことなる。

 同月15日、フランスがアシャンティに対して宣戦布告。AIのよくやる異教国いじめである。我が国はこの暴挙を見逃さなかった。ヴォロティンスキー公は既に大量の兵を積み上げてあるイルドフランスに出現している。つまり以前からフランス本土を攻撃対象に定めて準備を進めていたという訳なのである。今がフランスを叩く好機だと判断した基準として、指揮官の他、陸軍レベルが13になっており(こちらは11)、放っておくとまもなくCRT差を付けられてしまい征服が困難となるという事や改革派の登場で収入が減少している事もあった。

 歩兵隊をフランス領各地に敷き詰め、大量の敵軍のいる首都パリには8万の歩兵と2万の騎兵それから120門の砲兵が集められた。十二分な準備ができたらアシャンティからフランスとの交戦権を買う

2月 2, 1552 : ロシアは アシャンティ と ベニンとの軍事同盟に参加しました。
2月 2, 1552 : ロシアは、アシャンティ と ベニンと共に フランスとの戦争に参加しました。
2月 2, 1552 : 我々はオーヴェルニュにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はヴュルツブルクにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はオルレアネにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々の陸軍が、 イルドフランスにて敵軍と交戦しています。
2月 2, 1552 : 我々はフランシュコンテにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はシャンパーニュにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はリムーザンにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はニヴェルネにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はサヴォワにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はリヨネにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はブルゴーニュにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はプファルツにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はルシヨンにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はヘロナにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はエルザスにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はルクセンブルクにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はベリーにて、 攻城戦を開始しました。
2月 2, 1552 : 我々はマインツにて、 攻城戦を開始しました。
2月 3, 1552 : 我々の陸軍は、 フランスと戦闘し、 イルドフランスで勝利しました。 
2月 3, 1552 : 我々はイルドフランスにて、 攻城戦を開始しました。

 平地の騎兵大量運用とヴォロティンスキー公のお陰でパリの衛兵は1日で片付いた。LV3の城壁も包囲能力と大砲の前には無力であり他の都市と同様に1年も待たずして開城となった。

 フランスの豊かさは実に驚異的であり、略奪によって研究が早まることで1552年5月に貿易LV3を達成した。

フランス終了のおしらせ.jpg

 包囲されていないところにはまだ十数万は陸軍があったというのにそれを全く糾合しようとはせず、多数箇所を包囲されるとなされるがまま首都の奪回ばかりに拘泥するのがAIの悪い癖。これならインドで多発する反乱軍の方がまだ厄介だ。

 こうして1553年2月7日、フランスはロシアの属国となった。この世界のアンリ2世はおそらく暗君として評価されているのだろう。ノストラダムスがこの戦争を予言できていたかはわからない。そもそも史実のフランスはこの時代アフリカ侵略などしていないだろう。

リトアニアとアステカへの同時侵攻

 ふんだんに外交官が得られるこの時期はゲーム内時間が勿体無かったため「現状の領土に満足するな」「戦争を面倒くさがるな」「3年あれば戦争が1回できる」「戦争している暇があれば戦争しろ」という様なスローガンでマルチスレッドで領土拡大を進めていく事を心がけた。

 1540年のイベントで中核州をリトアニア北部に得ているため、そのうち併合イベントでBBRなしに全部かっさらえるにも関わらず早期の収入増を目的にこれを狙った。

 また、貿易レベルが3になったことで独占と通行税での大幅な収入増(おそらく全世界のCOT関税を集めても届かないほど。この差を得るためには何十年もの長い時間をつぎ込む必要があるというのがこれまた…)によってアステカの金を得てもインフレが起こらない経済規模を達成した。

 という訳で我が国はヨーロッパとアメリカで同時に戦争に及ぶ事を決めた。

対リトアニア戦

 しかしリトアニア自体には通行許可を得ているため、直接宣戦布告ができない。そこで同盟国のザクセンに$100を貸し、これを踏み倒したのをいいことに1554年6月1日宣戦布告した。もちろん名目上の当事者ザクセンとは軍を領内に侵入させただけで1ヶ月で停戦。ついてきた同盟国ポーランドとも即座に停戦。リトアニアとの1対1の戦いで、レベル差があるのをいいことに力任せに突撃していった。キプチャク汗国までが宣戦布告してきた1555年12月7日に全ての中核州を割譲させた。今思えば悪手だったかも知れない。

対アステカ戦

 アステカに限らず、新大陸の国家を攻める際の前準備として、(何度も前述した通り)税収の高い小アンティル諸島にスペインを出し抜いて入植し、都市を築く事で大量に徴兵ができる策源地を確保しておいた。更に海上を移動するための新大陸艦隊を建造した。この準備自体は1530年ごろには完了していたが、インフレを恐れてアステカ侵攻はこの時期までずれ込んだ。

 1554年9月7日、理由なしで宣戦布告。アステカ帝国はサポテカ領全土を食って7州になっていたが策源地からのピストン輸送によって何の問題もなくスラスラと攻略。1555年10月28日には併合した。これにより更なる収入増→技術開発加速となった。

ポルトガル恫喝

 ここまで多くの兵を溜め込むと普段のプレイでは外交属国化を断ってばかりの一見して主要国と呼べそうな国々に対しても外交属国化が通用するようになる。フランスを下した今、入植の邪魔になる国はイングランドとスペインとポルトガル位しかなく、ポルトガルから領土を奪い取る予定はもはやない。

 幸運な事に以前ポルトガルから奪ったクバンゴで1549年5月ナショナリズムによる反乱が起こり、これを放置したところ隣接するいまだポルトガル領アンゴラの2州へ侵攻したのである。これを奪回されぬよう私掠船バリヤーを築き、自国領だけを奪回しておいたため、1554年にはロビト(植民都市)とルアンダ(植民地)の2州が亡命してきた。こうしてアンゴラからポルトガルの勢力が一掃されたのだった。

 そんなポルトガルは首都にCOTを有しており、ここをいただくには併合以外の方法は考えられないのである。ポルトガルに贈り物をし、1556年2月にはバイエルン・ポルトガル ・クレーフェとの軍事同盟に参加、8月にはポルトガルを外交属国化した。

カザン回収・オスマン大失地(第三次爆裂外交)

 増加した中核州は未だキプチャク汗国領のカザンにもあった。たかが一州ごときに宣戦布告の1BBRや通行許可返上をするのは馬鹿馬鹿しいので上手いカモがいないかと見ていると、我が国が侵略中のリトアニアにキプチャク汗国(とオスマン帝国)が宣戦布告してきたので、「儂の獲物を盗んじゃねぇ!」とばかりに攻撃の矛先を変える事にしたのだった。

 同盟に参加するという方法は警告・独立保障よりもBBRを節約する事ができるし、なにより通行許可を持ったまま戦争する事ができるため圧倒的な戦術的優位を誇るのである。今回はオスマン帝国にも金をばらまき通行許可を得ておき、予め兵を配置しておいた。

 1558年5月1日、この前まで敵だったポーランド・リトアニア・ザクセンとともにキプチャク汗国・オスマン帝国との戦争に参加。この間のフランスでの場合と同様、突然領内で暴れだすロシア軍に翻弄されるオスマン・キプチャク両軍。キプチャク汗国はイスラム技術グループだが、今回のプレイでは中国が尋常ではない発展を見せているためそれに引っ張られて互角の陸軍技術を持っている。兵の足りなかったところでは敗北するも、全体の数では何倍にものぼるため最終的には押しつぶすことができた。もはや戦争というより陸軍の配置作業である。また、アナトリアではヴォロティンスキー公率いる歩兵隊による連続突撃作戦が功を奏した。

 今回は防衛戦争なので非中核州を多く持つオスマン帝国から先にできるだけ多くの領土を割譲させる事を目的とした。1559年6月13日、トラキア(白羊朝から奪い取ったがイベントの期限を過ぎていたので遷都はしなかった。)・アダナ・ルメリア・コンヤの4州を提示してきたのでこれを受ける。貰いすぎの感じがする(BBR増加による安定度コストが気になる)が、呉れるといったものは素直に受け取っておくべきだろう。現実世界でのスレイマン1世はウィーン包囲まで行った神君として知られるが、この世界ではジョン欠地王ばりにボロカスに言われていることだろう。こちらはついにツァーリグラードを回復して有頂天である。

 1560年1月29日、盟主ポーランドによってキプチャク汗国とも和平、最初の狙い通りカザンはロシアへ割譲された。

漁夫の利(第四次爆裂外交)

 1560年11月10日、オプリチニナ制度を行うかどうか訊かれたので迷わず断った。貴族中心政治は拡大政策と濃いプレイ密度のための生命線であり、下げる事は自殺行為以外の何者でもなかったのである。代償として中央集権が下がったが巨大な属国と多数の陸軍を持つ現状では寧ろ好都合になったといえる。

 一方、東南アジアではカンボジア(COTマラッカを所有)・アユタヤ・大越・タウングーとベンガル(COTガンジス)・アラカン・アデンが戦争中であった。このまたとないチャンスをものにするため、1561年5月26日まずは前者の同盟に入りベンガルへ襲い掛かった。これらの国々は中華技術グループの様なので陸軍レベルは最大でも3にしかなっていなかった。単純に西から兵を流し込んで突撃していくだけだった。同年12月10日にはベンガルの全土を占領し、ガンジスを割譲させた。更に翌年5月15日にはアラカンから賠償金と通行許可を得た。

 更にもう一方の陣営を攻撃するため、アユタヤから通行許可を買い、ベンガルと金の力で仲直りし、11月6日には同盟に参加することができた。返す刀でカンボジア本土と飛び地のマラッカを攻略。同盟でついてきたアユタヤ・大越・タウングーとは適当に戦った。 1563年4月11日、マラッカもロシアへ割譲された。こうしてたった3のBBR上昇で2つのCOTが手に入った。

ポルトガル領ブラジルの終焉

 1557年9月11日、ロシア領ブラジルのチラカンブで宗教紛争が発生。2万7千の反乱軍はそのまま東進しポルトガル領ブラジルの最後の都市レシフェへ向かい始めたため、ロシア軍はレシフェのポルトガル軍を攻撃した。数倍の数にも関わらず士気と地形効果によって敗北するも2千近くから100程まで減らせたためポルトガル軍はその後闖入した反乱軍によって殲滅。いつもの様にレシフェを海賊船によって封鎖して救助を絶った。

死亡確認.jpg

 1563年5月、ポルトガルの新大陸における植民地全ての死亡が無事確認された。折りしもノヴゴロドのブラジル入植100周年の年であった。ポルトガルは通行許可と地図交換だけで「庇を貸して母屋を乗っ取られた」格好になった。



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Last-modified: 2011-08-20 (土) 02:27:44 (2346d)