いよいよノヴゴロドの未回収の中核州はプロイセン領プスコフ1つだけとなった。既に年初収入は$100を超え、余った資金は税収の高い順に入植地拡大へと回されている。

 これまでを振り返ってみると戦争に次ぐ戦争で、平和な状態が持続する事はまるでなかったが、今回は結果的に1439年1月〜1441年4月の間の2年強の戦間期が発生していた。もちろんこの間も徴税官設置と徴兵(既に農奴制が最大に振り切れ、歩兵の単価は$5となった)による次の戦争の準備が続けられた。

 プスコフの税収は$5で、モスクワなどに比べるとあまり重要な州とは言えない。だが、今遠征するのは時期尚早であると判断し(理由は後述)、ある種の「時間つぶし」のためにロシア統一を先に実行することした。

ロシア統一戦

 1441年4月2日、ノヴゴロドはプロイセンへ宣戦布告。北ドイツ諸国同盟をデンマーク・スウェーデン(一度参戦を拒否したが再加入)との間で挟み撃ちする形での開戦となった。

 もはやほぼロシアを統一してかなりの大国となったノヴゴロドは大量の陸軍を保有する能力を獲得していた。数万の兵士はドイツ騎士団を潰走させるのには充分な戦力だった。10月には領土の南端クールラントにまで達した。ただしこの国には幾ら勝ってもプロイセンとの戦勝点には影響はない。エストラントとポロツクの2州を占領したらすぐに分離和平して、ドイツ騎士団領内の兵をプロイセンへ流し込む。

 1445年2月、プスコフとダンツィヒの2州を奪取して、プスコフを割譲させた。こうしてロシア統一は達成された。戦争の仕上げに盟主ポンメルンの無防備な後ポンメルン州へ歩兵8000人を進軍させて略奪。直後白紙和平を飲ませた。

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 開始26年、ついに中核州はすべて真っ白のノヴゴロド色に染め上げられた。戦いに次ぐ戦いの日々、戦争以外一体何があっただろう。意外にもスウェーデンからの1回を除いて全てこちらから宣戦布告か同盟への加入による参戦である。一体いつ戦争疲弊を回復したのか不思議なくらいの狂犬ぶりだった。

統一までのインフレ.jpg

 統一までに増加したインフレ率は7.6%。二桁にならなかったので御の字と言える。

 統一はこのプレイでは少しも大きな節目ではない。ここまでくるとウゴル文化を使える分モスクワよりも断然資金的には強力となる。戦闘力という懸念事項は残るが、指揮官や君主能力という一時的なものに頼っていては真の戦術家とは言えないと思う。ここまでロシアの統一という錦の御旗を盾に周辺国に暴虐の限りを尽くしてきたが、これからはそれにとらわれずに暴れ回ることになる。

в поле

 前述の通り、統一は時間潰しの手段でしかない。何が起こるのかというと、1447年になるとキプチャク汗国は崩壊イベントで反乱が多発する。叩くには格好のタイミングとなった。

 バニラのキプチャク汗国はサマラ(金鉱)とアストラハン(COT)という2つの高収入州を所有している。これらの州はどの国が持っても高い収入が期待できる。この時点で後にロシアとなる国が持つと、中核州化イベントに先んじて実に1世紀もの間年間およそ$150、計$1万5000もの大金が研究開発費に入ってくるので、これを狙わない手はない。それに、現在好評弱体化中のティムールのいるインド洋方面へ進出するための中継地(通り道)にもなるのだ。

 大義名分を得るに当たって、ありがちな手段だが、ローンの申し出を利用した。相手はイスラムなので婚姻ができず王位の請求などというこじゃれた手も使えないためこれは已むを得ない。ここでさっさと先に行かないと更にその先にあるお宝(具体的にはペルシャにある3つの植民地。ティムールは入植しないが、最初から人口が多く、自然増で都市化してしまう)がゴミに変わってしまう。

 キプチャクハンとその同盟国にローンを何度か打診して断られる。1447年1月、ギリギリのタイミングで受け入れられ、1ヵ月後返済の拒否が通達され開戦理由を得た。

対金帳戦

 ノヴゴロドはモンゴルに襲われてはいないので、彼らへの恨みはない。だがルーシの国である以上南方の遊牧民を攻撃・略奪するのは伝統以外のなにものでもない。原初年代記に刻まれたキエフルーシがクマン人と殴り合っていたあの頃の記憶が甦ってつい殺っちゃいたくなるときがロシア人なら誰でもあるだろう(民族史的偏見)。

 初の本格的な、同盟を用いない単独での侵略戦争である。領土の広さではこちらが勝っているが、敵の収入はこちらの2倍もある。普通に中核州増加に伴って攻略する場合とは違い、まだ序盤であるため軍事レベルは互角。敵同盟国ジャンダルの存在、更に冬将軍とAIチート。反乱イベントがなければ絶対に勝機はない。ただ幸いにもリトアニアによって西部が侵食されているのが救いだった。

金帳戦.jpg

 戦術としては基本的にリトアニアに使ったのと同じ様にした。ただし今回は最初のモスクワ殲滅戦と同様に敵軍の全滅を狙うので(COTのあるアストラハンの必要ポイントがとてつもなく高い。幸運にも敵は海軍を全て失っていて、陸軍だけを全滅させればいい)占領用の歩兵隊とは別に2万騎程遊撃隊を組織して敵戦力の減滅に努めた。1447年10月の反乱イベントが起きた後は反乱軍のいない州を優先して落城させ、半分近くを占領し終えて政府崩壊のおそれが出る頃には逆に反乱軍占領州を狙った。

 腐っても金帳、攻略には5年弱の期間が必要となった。だがキプチャク軍に負ける事はまずなく、むしろ敗走は沸いて出る反乱軍に対して積極的に行った。それどころか後半になると資金的余裕が出てきて余った金で植民まで行う寛ぎ加減だった。

 こうして全ての領土を占領し、全ての陸軍を殲滅させた1452年5月17日、サマラとアストラハン、通行権、$250を得ることに成功した。

ティムールのペルシャ植民地の奪取

 1457年には我が国にも反乱イベントが待ち受けているので、あまりのんびりはしていられない。賠償金$250を使って今度はティムール帝国との間に横たわっているノガイとウズベク汗国との関係を改善して通行許可を得る。同時にティムール帝国へ金を貸して大義名分を得る。

 1454年6月5日、開戦。要塞のないティムールの領内はわずかな騎兵があれば簡単に戦勝点を稼ぐことができる。本隊とは別に一千騎の別働隊で敵軍のない州を行進させた結果住民は我が国の旗を挙げて出迎えてくれた。翌年2月14日、ティムールから3つの植民地(ルット、メシェド、ケルマーン)と賠償金をせしめる。賠償金は即座にティムールとの関係改善に費やされ、通行許可に化けた。

 その気になればCOTのあるイスファハーンを割譲させることも簡単だが、それはあえてやらなかった。「世界の半分」の人々は賢明な判断をしてくれるので、わざわざ暴力をふるう必要が感じられなかったのだ。

ノヴゴロドの市民戦争

 市民戦争、原文ではCivil war、内乱と同じだが、ゲーム中の本物の内乱と比べると全く易しい。3つの選択肢が選べるがどれも反乱率が上がり安定度が下がる。今回は陸軍主義に振れる選択肢を選んで士気の弱さをカバーした。結果入植者を得にくくなるが、どうせ今の状態ではまだ植民の頻発はできない。この大陸国家MAXの方針はピョートル大帝の頃までは続けようと思う。

 BBRが低く、さらに非国教州も収入の高いアストラハンだけなため、安定度は半年につき1ポイントという速さで回復する。カトリック諸国との関係を無視して正教へスライダーを全振りしたため、反乱それ自体もまれにしか発生しない。反乱したところで厳冬で蒸発していった。被害らしい被害といえば被略奪と反乱率ペナルティーによる収入減くらいである。

世界の半分がなかまになりたそうにこっちをみている

 反乱のさなか、ついに計算していた幸運が舞い込む。

11月 1, 1458 : 自由を愛する イスファハーンの反逆者は ティムール帝国を叛き、 我が国に亡命しました。

 バニラではティムール帝国支配下を嫌って反乱したペルシャの人々は序盤のうちは独立という考えを起こさない。前回の戦争で植民地だけを奪ったのはこの意図があったのだ。文化宗教の異なる州をナショナリズムなしで手に入れられる事は非常にありがたい。ペルシャ植民地を持っていれば、税収が高いせいで大量の反乱軍が涌き最初から要塞もあるため奪還が難しいイスファハーンは高確率で亡命してくる。

海外領土1458.jpg

 こうしてノヴゴロドは短期間のうちに海外領土を得た。



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Last-modified: 2011-07-29 (金) 02:49:31 (2643d)