前回までのあらすじ
ルーシ最古*1の都ノヴゴロドはモスクワによる滅亡という運命を受け入れる事を断固拒み、逆にモスクワを永遠に歴史の表舞台から抹殺するために(ついでに独立をおびやかすヴァイキングどもとも)戦いを始め、これを打ち負かした。 外部勢力を大いに利用して迅速にロシアを統一(中核州を回収)したノヴゴロドは史実のモスクワ・ロシアを上回る財力を誇るようになった。 その有り余るパワーをぶつけるサンドバックとして選ばれた瀕死の病大国キプチャク汗国。5年に亘る戦いの末の完全なる勝利。草原の扉を開いたノヴゴロドは更に瀕死のティムール帝国に侵入し、人煙まばらな荒れ地の領有を認めさせた。 そこに目をつけた、ティムールの支配に抵抗し反乱したイスファハーンのペルシャ人達。異教徒であるにも関わらず平和で寛大なノヴゴロド王権(自称)の庇護下を自ら望んだ。 かくしてノヴゴロドは多民族国家の様相を呈し、次第に帝国の体を為し始める。 乱れる三国 †1459年現在、我がノヴゴロドは反乱が多発する状況であり、この政情不安はまだあと4年続く見込みである。この期間は植民をしながらじっと耐えていくことになる。 一方、それ以上の破滅的な反乱がキプチャク汗国とティムール帝国で続いていた。ノヴゴロド陸軍は治安維持を謳いこれらの国々に駐留、政府が崩壊しない程度に反乱軍に占領された地域を開放して回っていた。ただしノヴゴロドとの国境付近はわざと見逃し、意図的に亡命しやすい状況を作り出した。また、カザン汗国の独立は後にかの土地を中核州として領有する際にBBRを余計に加算する羽目になるため、カザンはできるかぎり開放した。 2月、キプチャク領タンボフが亡命。さらに「最高の年」が起こり二重の幸運に包まれた。 ノヴゴロド領ブラジル †戦争ができないという事は戦争以外の外交手段を振るえという事に他ならない。1461年から我が国は植民先進国ポルトガルへ贈り物攻勢をかけ、翌年2月には共同での探検を承諾させた。 史実よりも遥かに早くこの世界のポルトガルは喜望峰を周ってインド航路を開拓し、中国にまで到達していた。さらに歴史を無視し、南米大陸を発見・ブラジルへ入植していた。 これはチャンスとばかりに我が国は戦艦を1隻建造(後に言うガレオン船 1465年6月20日、ポルトガルのブラジル支配に楔が穿たれた。 アルメニア争奪戦 †内乱が収まり、新大陸への橋頭堡を築いた今、いよいよ次の攻撃目標を決定するときが来た。 今回狙うのは金鉱のあるアルメニア。この州を領有している白羊朝に警告をかけておく。 8月 29, 1466 : グルジアは、白羊朝との和平を 下記条件で受け入れました グルジア からの 賠償金306$ 。 ソチを 白羊朝へ 割譲. グルジアの 属国化。 8月 29, 1466 : グルジアは、 白羊朝の属国になりました。 9月 17, 1466 : 白羊朝は黒羊朝に対し、 宣戦布告しました。 9月 17, 1466 : キプチャク汗国は、白羊朝と共に 黒羊朝との戦争に参加しました。 9月 17, 1466 : ジャンダルは、キプチャク汗国 と 白羊朝と共に 黒羊朝との戦争に参加しました。 いやはや矢継ぎ早に戦争とは…(←あまり人の事はいえない)。 というわけで翌月には予め大量の歩兵をアストラハンにかき集めて我が国も宣戦した。キプチャクとジャンダルが付いてきたが、前者には予め兵を駐留させておいたため即日白紙和平してもらった。なので1対2の戦いとなる。 白羊朝の領土はそれなりに狭いためAIが効率的に兵を動かしてくる上、多くが山岳地帯で防御効果も高い。「広くて固いモスクワ」といった最悪の印象だった。救いは雪が頻繁には積もらない事くらいなものである。 地形効果で士気負けしやすいため、ものすごい数の歩兵を流し込んで殲滅を図る。あまり奥へ行っても見る間に消耗していくため、同時に多数箇所を包囲するのも難しい。黒羊朝のがんばりが頼りだ。 翌年9月には入り口にあたるダゲスタンが落城。さらにその次の年の2月には本命アルメニアを落とし、野戦とあわせてかなりの戦勝点を稼いで講和にこぎつける。 ノヴゴロドはCOT3つと金鉱2つを持つこととなり、更に豊かになった。 インド洋進出 †一方南に目を移すと、オマーンの本土植民地の一つがまもなく都市化しようとしていた。貴重なインド洋への港が台無しにされてしまう前にローンで開戦(1469年3月6日)。通行許可を得ていたカリフ領を経由して兵を流し込む。 陸軍弱国である過疎地オマーンの本土は殆ど徴兵能力もなく、兵をためておくこともできない。戦術も糞もなく騎兵で走り抜けて敵軍を一掃して後から歩兵で包囲していくだけだった。 翌々年1月、本土の植民地2州(ダマン、カタール)の割譲と賠償金の支払いで講和。東アフリカの地図を手に入れ、いよいよ待望のエチオピアとの接触が可能となる。 弥栄 †この時代さらに2つの喜びが訪れた。 5月 1, 1472 : 自由を愛する ホルムズの反逆者は ティムール帝国を叛き、 我が国に亡命しました。 1月 1, 1476 : 新しい交易センターを、 ペルナンプコに開設しました。 これらはただの偶然ではない。事前にそうなるように工作しておいたからこそ起こりうる必然なのだ。亡命の原因については前述の通りである。新しいCOTが自国領に出現したのもブラジル進出がまさにその原因なのだろう(詳しい原理は知らないが)。 交易センターの開設によってポルトガルからブラジルでの商圏を奪い、ノヴゴロドは新大陸において経済的優位に立った。実にエポックメイキングな出来事といえる。 アフリカ進出 †1472年7月、エチオピアとヌビア双方に隣接するマッサワに交易所を建設することに成功。12月にはエチオピアを発見する。 あれ?同盟に入れないぞ…。 ともあれ、向こうから同盟に誘ってきたので無事事なきを得る。 更に金を注いで両国との関係を向上させ、1476年2月1日にヌビアが、同20日にはエチオピアが属国となった。初の属国を手に入れて、弱小国だった我が国もいよいよ帝国然としてきた。 |