第一次ゲルマニア遠征(511〜516)

511年、新王クロタール、フランク王国の一分国、ソワソンの王として即位。ここより新たな歴史が始まる。

クロタールの能力値はまさにミニクローヴィスといった感じ。父とは比べるべくもないが、それでも指揮官として、君主として中々に優秀である。

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以下は511年の状況。わがソワソンはフランク王国本来の領土(ベルギーやオランダ、フランスの一部)に加えてアキテーヌの東半分を父クローヴィスより受け継いでいる。軍のサポートリミットは2万3千にまで減り、年初の収入も父の時代に比べると激減してしまった。

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フランク王国が事実上解体されたことによって、イタリアやゲルマン諸族との同盟関係もまた解消された。4分国成立直後は各分国同士はかなり親密な関係(友好度200)でを持っている。しかしながら、各分国はフランク王国全体に中核州を持っているのでその友好関係も早晩崩れ去ることだろう。クローヴィス時代のよしみもあって、イタリアとはかなり親密な関係であったので、クロタールは父同様イタリアと手を結ぶことにした。兄弟たちに背を向けて・・。

彼が即位早々着手したのはフリーセン族の討伐。実はフリーセン族に対する軍事行動はサクソニー族からの要請により、クローヴィスの治世の頃より行われており、いまやフリーセン族は首都のみをかろうじて有する弱小国となっていた。この戦役は513年3月−514年4月のおよそ1年間にわたり、クロタールはフリーセン族を自国へ併合した。

だがクロタールは満足しない。兵もまだまだ戦を欲していた。対フリーセン戦終了直後、クロタールはチューリンゲン族に宣戦布告。チューリンゲン族はアレマンニ戦のときからの盟友であったが、このときたまたま同盟から外れていたのである。ちなみにフリーセン族にたいしてもチューリンゲン族に対しても開戦理由なはく、いずれも理由無し宣戦となった。

イタリア王、サクソニー族長などはこの一連の戦争にたいして疑問を感じつつも軍を供与。クロタールは彼らの軍及び自国の軍を上手く使い驚異的な速さでチューリンゲンの拠点を落としていく。開戦から2年、チューリンゲン族は全土を制圧され、ソワソンに併合される。516年2月のことであった。

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ブルゴーニュへの拡大(516〜524)

520年3月、重要なイベント「ブルゴーニュへの拡大」が起こる。

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これによってブルグント王国全体がフランク王国の中核州となる。史実では、クロタールをはじめとするクローヴィスの息子らによって何度も遠征が行われ、523年にクロドミールがブルグント王ジギスムントを破るも、苦戦の末にクロドミールが戦死、534年に再びキルデベルトとクロタールがブルグントを攻めてようやくこれを配下におさめている。事の顛末は「クロドミールの死」イベントに少し書かれていたりする。

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さて、ブルグントに対する大義名分が手に入ったので早速宣戦布告。この頃、ソワソン―イタリア同盟にはサクソニーやランス王国が加わっていたので、彼らの力も借りることにする。外交的に孤立していたブルグント族は各地で撃破され、その領国を奪われていった。第一次ブルゴーニュ遠征は523年4月に終結する。クロタールはフランシュコンテの割譲と属国化で手を打ったが、我が同盟の同盟主はイタリアなのでブルグントを同盟に加えることができず、その後の各国の侵略から守ってやることができなかった。というか、536年にはランス王の要請に従ってわが国も攻撃せざるを得なくなる事態が発生。思えばこの属国化は失敗であった。結局ブルグントはその後2回の遠征によって、546年にわが国によって武力併合されることになった。

また、第一次ブルゴーニュ遠征の直後、「クロドミールの死」イベントが発生し、彼のオルレアン王国は3人の兄弟によって分割された。以下は分割後の勢力図。

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第二次ゲルマニア遠征(524〜534)

クロタール王が行った最大規模の遠征がこの第二次ゲルマニア遠征である。これと同等の規模の遠征には彼が晩年に行った西ゴート遠征が挙げられるが、これはまだまだ先の話。今回のゲルマニア遠征によってソワソンによるゲルマニア支配が確立された。

さて、クロタール王の戦略は以下の通りである。まず長年の盟友、父王の時代には西ゴート戦をともに戦ったサクソニー族を侮辱し、関係をわざと悪化させる。そしてババリアに宣戦布告。もちろん大義名分などない。ここで同盟国に参戦を要請すると先の侮辱によって関係の冷え切ったサクソニーは当然参戦を拒否。めでたく彼らに対する大義名分が手に入ったので嬉々としてサクソニーに宣戦布告。こうしてサクソニー・ババリア両国を撃破・さくっと併合しようというのがクロタールの戦略である。この一回の戦いによってゲルマニア全土も支配下におけるやもしれぬ壮大な計画であった。

ブルグント戦後、クロタールは着々と準備をすすめ、526年4月にはサクソニー・ババリア両国と交戦状態にはいる。しかし、ここで問題が発生。この計画に水をさしたのはパリを治めるキルデベルトであった。奴はゲルマニア戦に全戦力を投入し、無防備となっていたソワソンの背後を襲ったのであった!クロタールの野望はキルデベルトを触発し、ここに西ヨーロッパ全体に波及する、未曾有の大戦が勃発する。527年5月のことであった。

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クロタールは本土の防衛を完全に放棄。キルデベルトのやりたいようにさせ、自分は引き続きゲルマニア戦線にとどまる。キルデベルトの攻撃は苛烈を極め、528年8月には首都ソワソンが陥落。さすがのクロタールもこれには閉口するが、その直後、ランス王テオドリックがソワソン奪還のための軍事行動を起こしてくれたので、西方戦線は彼らに任せることにする。

サクソニー族との戦いは、同盟国としてユトランドの勢力が2万5千の兵を率いて介入してきたこともあり、一長一短で併合、というわけにはいかなかった。それでも529年5月には全土を制圧し、併合に成功。クロタールはユトランドの軍との戦いにはいる。彼らが中々和平に応じなかったこともあって、彼らを屈服させババリア方面に戦力を投入できるようになったのはサクソニー併合から2年後の531年のことになってしまった。そろそろ戦争による疲弊が積み重なってきており、各地での反乱が怖いところである。ちなみに、ユトランドに対しては本国まで攻め入る余裕はこちらになく、賠償金をとっての講和となった。

ババリア族との戦いはその後3年にわたり続く。供給限界の低さに苦戦しつつもクロタールは同盟軍の兵を上手くつかって包囲を続け、534年1月に併合を達成。各地では反乱が頻発し始めていたこともあり、ぎりぎりのタイミングであった。また、この頃にはキルデベルトとの間に白紙和平が成立しており、西欧に再び平和が戻った。

あしかけ7年にわたる第二次ゲルマニア遠征を完遂したことでクロタールの声望はおおいに上がった。いまやソワソンは東ローマに続いて二番目の威信(ゲーム的には勝利点)を獲得していた・・!

下図はゲルマニア遠征終了時の勢力図。キルデベルトは後背を西ゴートに衝かれたのか、父王より受け継いだアキテーヌ地方の大半を失っている。まったくもって不甲斐ない。

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王国の再統一と最後の遠征(534〜561)

さて、ゲルマニア制覇後は静かなものだった。クロタールは征服した各地に州税官を配置したり、技術開発にいそしんだり、と内政にはげんでいた。そのかたわら、536年、541年の二回にわたる遠征によりブルグントを完全に併合している。

さて、555年と558年には重要なイベントが起こる。ランス・パリ両王国の断絶である。パリ王は相変わらずキルデベルトだが、ランス王はテオドリックの孫のテオドバルトである。このイベントによってフランク王国は再統一される。

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復活なったフランク王国。この再統一も561年にクロタールが死ぬまでのわずか3年しか続かないわけだが・・。とはいえ、クロタール即位時の4分5裂の欧州情勢からすると隔絶の感がある。

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さて、兄弟たちの領土を相続し、フランク王国唯一の王となったクロタールは最後の遠征を決意する。その矛先は西ゴート。奪われた父王の領土の返還ほか、父が達成できなかったガリアからの西ゴート駆逐という野望を抱いての遠征である。

この遠征でクロタールは有終の美を飾る。彼はこの戦で自ら1万5千の兵を率いてピレネーを越え、敵首都カスティリアを陥落せしめる。わずか一年あまりで西ゴート王は降伏し、ガリアからの完全撤退のほか、COTのあるカタロニアまでもフランクの王に献上した。ここにクローヴィスの時代を越えるフランク王国が完成。ガリア完全統一も残すところイタリア王国の持つわずかな領地を残すのみである。フランク王国の勢威は、よくみるとブリテンのケントにまで及んでいる。この地ケントはいつの日かフランク王がブリタニア遠征を行うその時にきっと役立つことであろう。

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561年、クロタール王死去。彼には父クローヴィス同様4人の息子がいた。

再び分裂の時代がやって来ようとしていた・・。



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おまけ

ブリテン島戦記#2―消えたケント王国

さて、前回のケントの躍進からちょうど半世紀。ブリテン島はどんな状況かというと・・

<561年のブリテン島>

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はい、本文を読んでお気づきかとは思いますがケントは最早存在しません。ってかケント州自体フランク王領です。ここ50年の間で一体なにが・・
過去ログを読んでみたところ、あの直後拡大によって上昇したBBRが引き金となり、ミニBBWが発生、ケントはブリテンの他の全勢力を相手に戦い大敗、一州のみとなったところをパリ王キルデベルトに併合され、イベントによりパリ王の領土はクロタールのものになり、561年に至るというわけです。
さて、この後もブリテン島の戦乱は続いていきます。具体的にはウェセックスとレジェドがイングランド領域を巡って、ストラスクライドとオニールがアイルランドの領域を巡って死闘を繰り広げていきます。筆者的には史実どおりにことが進んでほしいので、イングランド問題に関してはウェセックス擁護派です。

ちなみに上の地図で灰色になっているヨークシャーは西ゴート王国の領土だったりします。はるばるイベリアからご苦労なことです。

 

東ローマ興亡記#1―ローマの回復

東ローマでは527年にユスティニアヌスが即位します。

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ここから東ローマには拡大イベントがあるらしく、ヴァンダルを併合&イタリア・ペルシアに攻め込み領土を著しく拡大。イタリアは史実どおりにはいきませんでしたが、ちゃんとローマは回復しました。もし東ゴートがイタリアにちゃんとあったらここも接収できていたんでしょうかね・・。AIは領土が広くなりすぎると領地全体を上手く管理しきれず、大抵反乱やら手薄な国境から他国の侵略を受け、弱体化していくため、私はここが東ローマ最盛期かと思っていたら、この後もまだまだやってくれます。そしてこの後の東ローマの拡大には実はフランク王国も絡んでくるのですが、それは次章のお楽しみ。

ローマ561.JPG

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Last-modified: 2006-08-12 (土) 20:03:47 (4700d)