内乱の終息(718〜722)

718年4月、カール・マルテルは経済力・動員力・技術力そのすべてにおいて勝る東ローマ帝国を、激戦の末打ち破り、属国化。父の代の会稽の恥をそそいだ。
これによって王国内のマルテルの声望は大いに上がった。しかしながら先の章の最期で述べたように、715年にマルテルの宮宰就任に反対する勢力が各地で蜂起し、マルテルが東ローマ戦に手一杯で、ここにまで戦力を割く余裕がなかったこともあり、この時点で反乱の火種は大きく燃え上がっていた。数え上げてみると、現在反乱軍が包囲中の州は8州、占領中の州は2州、独立を宣言した州が3州とのこと。まことにもって深刻な状況だ。
せめて東ローマとの戦争がなければここまでの事態に発展することもなかっただろうに・・。そうマルテルは独り言するが、すんでしまったことは仕方がない。こうなった以上は一刻もはやくこの内乱を終結させるべし。考えようによっては、これによって反対勢力を一掃することができるのだから、ついてないといえなくもない。これを乗り切れば、自分は名実ともにフランク王国の支配者として認められるだろう。

マルテルは反乱をひとつずつ、丁寧に鎮圧していく。独立を宣言していた3州にもすぐさま軍勢を派遣し、2州を併合、1州を属国化に追い込む。その間、ローマとの関係改善・同盟締結も忘れない。今、この状況下で東ローマの攻撃を受けたら今度こそおしまいだ。先の戦いではフランク王国が勝利したとはいえ、東ローマの力は未だ健在。このまま放置しておけばいつ属国関係を破棄・宣戦布告してくるかわからない。そうさせないための布石だった。

結局反乱を全て鎮圧し、王国に平和が戻ったのは722年2月のこと。蜂起からおよそ7年、長きにわたる戦いであった。これによって王国におけるマルテルの権力は完全に確立され、彼はめでたく宮宰に就任。名実ともに王国の頂点に上り詰める。
また、先代、中ピピンの時代より陸軍技術に投資をしてきた甲斐あって、この前後にわが国も陸軍Lv9、CRTの向上を迎え、これでようやく東ローマの精鋭たちと互角に戦えるようになった。

以下は内乱終結時・722年のヨーロッパの情勢。
中ピピンの時代開始時から比べると、イベリア・ブリタニア・東欧方面へのフランク王国の拡大が目に付く。西ローマ帝国領統一まで残すところ11国。東ローマの介入も無事排除することに成功したことだし、後はBBWに突入して傍若無人にこいつらを併合しまくればいいわけである。ちなみに、ヴァスコンシアは内戦のときに独立を果たしている。

<722年の情勢>

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カール・マルテルは、指揮官としては彼が史実においてフランク王国全体の宮宰となった717年に登場。また、君主としては、史実において王位が空白であった737〜741の期間で登場する。
軍事や統治はまあいいとして、肝心の外交能力が低いのがイタイ。特にこの時代はBBWもあって、外交官の需要が高かっため、慢性的に外交官が不足してしまった。

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アヴァール族との戦いとロガランド遠征(722〜739)

対アヴァール戦

ようやく内乱を終結させ、国内に平和を取り戻したカール・マルテルであったが、かれに一息つく余裕はなかった。なんと、内乱の終結から半年後にはアヴァール族が宣戦布告!東ローマ帝国領や海路を用いてフランク王国に侵攻を始めたのだ!

<722年のアヴァール族の領土。かなり広大。>

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この事態にマルテルは冷静に対処。東ローマ帝国やアキタニアといった同盟国に参戦を要請するとともに、ハンガリー駐屯軍2万に号令を出し、東ローマ領を通過させてのアヴァール族攻撃を企てる。自身も3万の兵を率いて首都ランスを後にした。

当時アヴァール族の陸軍Lvは7。こちらは9なので、彼らと我が軍の士気には著しい差がみられ、戦闘に関しては楽勝ムードが漂っていたが、さすがは騎馬民族。平地において4万余の騎兵部隊をぶつてくるなど、野戦には勝利するも兵力の損耗はすさまじく、たびたび包囲を無効化される。また、アヴァール族の領地では冬季になると雪が降り積もり、これもフランク軍の消耗をさそった。最終的には包囲による陥落をあきらめ、突撃による陥落が決行されることになるが、このためフランク軍の被害はさらに増した。

戦争は、当初の予想に反して長期化し、アヴァール族が降伏、フランク王国の属国となったのはなんと開戦から5年後のことだった。この戦争によってフランク軍は多くの被害を出してしまったが、これによって、アヴァール族もまたフランク王国を盟主とする同盟に組み込まれることになり、フランク王国の勢威はますます増した。これは、来るべき西ローマ帝国領統一戦に際して東ローマ・アヴァールの脅威を完全に排除することができることを意味し、この戦略的価値は計り知れない。

ロガランド遠征

アヴァール族遠征後、マルテルの王国はしばしの平和に恵まれた。東ローマ・アヴァールといったヨーロッパのトップ3に名を連ねる大国を降したフランク王国に戦争を仕掛ける国は最早なくなり、マルテルは思う存分内政に励むことができた。

この間マルテルは貿易に精を出し、ロンバルディアのCOTに商人を送り込み、独占を達成した。国内政策は中央集権化を推進、技術開発は引き続き陸軍に投資をした。
また、729年にはアキタニアを外交併合し、かの地の直轄統治に乗り出した。

734年、対アヴァール戦から実に7年後、十分な休息をとったマルテルは、ロガランド遠征を決行。ロガランドは北欧に君臨する大国で8州からなる。統一戦(BBW)に突入したとき、ここを残しておくとなにかと厄介であるとの判断からこの遠征が始まった。ロガランドは異教なのでBBRを上げることなく併合できるのも大きなポイント。ちなみに、この時点でのBBRは44.3/51とかなりギリギリになってきている。

<開戦時の北欧の情勢>

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ロガランド遠征では、ロガランドが未だ陸軍技術Lv3と士気値にかなりの差があったこともあり、突撃を主体にした人海戦術でサクサク敵城をおとしていき、2年半ほどでサクッと併合。北欧の勢力図を大きく塗り替えた。

これにて残るはガリア・イベリア・ブリタニアに残る小国9カ国のみ。いよいよ、本格的な西ローマ帝国領統一戦(BBW)が始まろうとしていた・・。

旧西ローマ帝国領統一戦争(739〜751)

統一戦開始

カール・マルテルの父・中ピピンは西ローマ帝国領統一を目指していた。そのためにイベリア・ブリタニア・北アフリカに遠征し、フランク王国の領土を大きく拡張した。ところが、その明け透けな野心は東ローマ帝国の不興を買い、晩年には苦杯を舐めさせられることになる。さらに東ローマの介入によりフランクの内乱の火種は大きく燃え上がり、実に7年にわたる内戦が現出された。
この東ローマの介入さえなければフランク王国の西欧統一は10年早まっていただろう。

今、カール・マルテルは東ローマ・アヴァール両大国の、統一戦に対する不介入の約束を取り付け、旧西ローマ帝国領統一に向けて大きな一歩を踏み出そうとしていた。

<統一戦(BBW)直前の西欧>

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カール・マルテルの死

西暦739年3月、フランク王国はグウィネスに宣戦布告。グウィネスの同盟国であったアルバ・ブルターニュ・オニールも戦争に参加。ここより、本格的な統一戦が始まった。
カール・マルテル自身は最も激戦が予想されるブリテン島にあり、かの地の攻略戦の指揮をとることにした。

フランク王国はその圧倒的兵力をもってこの4国を圧倒、次々と敵城を占領していくものの、その途上、カール・マルテルが陣没。宮宰職と、戦争は息子の小ピピンに引き継がれた。小ピピンはこの時27歳。奇しくも、カール・マルテルが父中ピピンから東ローマ帝国との戦争を引き継いだのと同じくらいの年齢で、かつ状況も酷似していた。ただひとつ違うのは、このときは小ピピンへの権力の移行がスムーズに行われたことで、このため、若き総司令官は統一戦に集中することができた。

742年6月、グウィネス併合
743年2月、ブルターニュ併合

これによってフランク王国のBBRは臨界点を突破し、ついにBBWが勃発。西ゴート王国・ブルグント・ヴァスコンシア・ノーサンブリアの4国が一斉にフランク王国に対し宣戦布告。西ヨーロッパ諸国はフランク王国の前に最後の抵抗を試みる。

しかしこの4国の参戦はピピンの予想の範疇であった。彼は亡父が各国にあらかじめ国境付近に待機させていた3万の軍勢を差し向け、これらの国を次々に併合していく。

743年7月、アルバ降伏(一州のみに)
745年2月、ヴァスコンシア併合
745年4月、オニール降伏(一州のみに)
745年8月、ブルグント併合
745年12月、西ゴート王国併合
746年4月、ノーサンブリア併合

この過程で最も苦戦を強いられたのがアイルランド戦線。すなわち対オニール戦。オニールは5万余の兵力を貯めこんでおり、また、アイルランドは山岳地が多く、かつ供給限界が低いこともあり、かなりの苦戦を強いられた。アルバ降伏後、ブリテン戦線に投入していた兵力や、首都から新たに徴募した軍団を大量に上陸させ、力攻めで敵軍を壊滅・州の占領を行っていったが、この過程で多大な犠牲が生じた。

ともあれ、こうして各国の一回目の宣戦布告を退けたピピン。この一連の戦闘の過程で各国はその戦力の大部分を喪失し、フランク王国による西ヨーロッパ統一は最早時間の問題となった。

西欧の統一

ノーサンブリアを併合した時点で小ピピンは属国であったストラスクライドを同盟から追放、宣戦布告させる。外交併合による中央集権化−1を嫌っての行動だった。半年でストラスクライドを降伏に追い込むと(ストラスクライドは一州のみの弱小国に転落)、休戦期間の切れた各国の二回目の宣戦に備え、国境付近に軍隊を移動させていく。

748年9月、休戦期間の切れたアルバがフランク王国に対して宣戦布告。これに呼応して全ブリテンが対フランクに立ち上がる。すなわちオニール・ストラスクライド両国がアルバ側にたってこの戦争に参加したのだ。しかしこの同盟も、小ピピンの容赦ない攻撃によって一年半にも満たぬ短い期間で瓦解。

749年10月、アルバ併合をもって、旧西ローマ帝国領はフランク王国のもとに統合された。

<749年、統一戦終了時の西ヨーロッパ>

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小ピピンのフランク王即位

こうして、中ピピンの時代より始まったフランク王国による旧西ローマ帝国領統一運動は終結し、476年の西ローマ滅亡以来、群雄割拠の時代を迎えていた西ヨーロッパは再びひとつに統一された。小ピピンの声望は、西ヨーロッパ統一という偉業をなしとげたことによって大いに上がり、ついにメロヴィング朝の王を廃位し、自らが王位につくことに成功する。

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ときに751年、統一よりおよそ1年後のことであった。ここよりカロリング王朝の歴史、栄光と激動に満ちた新時代が始まる。

また、ピピンの西欧統一によって、国号こそ「フランク王国」であり、ピピンも「フランク王」に過ぎないが、476年に滅亡した西の帝国の復活がなったことは誰の目にも明らかであった。

ヨーロッパもまた、西の帝国と東の帝国が、真のローマ帝国建国をめぐって激しい争いを繰り広げる新時代を迎えようとしていた。


ここで史実における話を少し。

史実では、小ピピンは父カール・マルテルの死後、メロヴィング朝のキルデリク3世の下、宮宰としてフランク王国の実権を握った。中ピピンの治世から、フランク王国の実権はメロヴィング家からカロリング家へと完全に移行していたが、それでもクローヴィス軌瞥茲よそ250年にわたってフランク王位はメロヴィング家の者に受け継がれてきたわけで、その伝統的権威には並々ならぬものがあった。その伝統的権威ゆえに、小ピピンの父・カールマルテルも祖父中ピピンも、全ての実権を握りながらも、ついに自らが王になることはできなかったのである。

メロヴィング家の王を廃位して自らが王になる。ピピンの課題は、この王位簒奪に対していかなる正当性を付与するか、ということであった。ピピンはここでローマ教皇を利用する。当時教皇はランゴバルト族の脅威にさらされており、ピピンは教皇を守る代償として、王位簒奪のお墨付きをもらったのであった。

いわく、

「現在フランク王国には王の権力をもたぬ者が王位にあるが、これは善きことや否や」
これに対し時の教皇ザカリアスはこう答えた
「王の権力を持たぬ者よりも王の権力を持つ者が王と呼ばれた方がよい。秩序が乱れないように、ピピンが王となるべきである」
と。

これを背景に751年、ピピンはフランク族の貴族たちによってフランク王に選出され、ソワソンで塗油された。こうしてカロリング朝が開幕する。

その後、ピピンは多くの土地を征服していく。754年から755年にかけてはランゴバルトと戦い、ラヴェンナを奪ってローマ教皇ステファヌス靴妨ゾ紊靴拭これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった。また759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人をフランスから駆逐することに成功し、さらにアキテーヌも王国に組み入れた。

こうしてピピンの権威はクローヴィス軌瞥荳任盥發泙蝓▲ロリング朝はピピンの子、カールの時代に最盛期を迎える。
このカールが西ローマ帝国を再興し、ローマ皇帝として教皇よりの戴冠を受けるに至る。世に言うカール大帝である。



史実においては「西ローマ帝国」の復活であったが、本AARにおいては・・
次章、いよいよ最終章である。中ピピンの時代より始まった東西ローマ帝国統一計画。この時代についにフランク王国は西欧の統一に成功した。あとは東の帝国との統合を図るのみである。この統合が外交併合により平和裏に行われるのか・・・それとも再び両者が統一をかけて剣を交えることになるのか・・。この時点では誰も知る由はなかった・・。




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Last-modified: 2006-09-03 (日) 19:43:15 (4612d)