この章では、オイゲン公が登場する1688年からその退官までの約40年間を扱います。彼はレオポルト機▲茵璽璽姚機▲ール困隼或佑離疋ぅ腸Δ忙鼎─▲▲献△砲けるドイツの勢力を著しく拡大しました。


この時代の戦略

まずは1688年のドイツ王国の版図を以下に示す。ヨーロッパではドイツを盟主とした第三次ヨーロッパ大同盟(ドイツ・スペイン・ロシア・ポルトガル)が成立している。これら同盟国は全て属国で、いつでも併合可能なので、ヨーロッパはドイツによって事実上統一されているといっていいだろう。 また、アフリカも数州を除いてドイツ王国の支配下にある。

<1688年のヨーロッパ・アフリカ>

ヨーロッパ1688.JPG

 

新大陸はというと、フランスやイングランドの併合に伴い、大陸全土をドイツとスペインが二分する形になっている。

<1688年の新大陸>

新大陸1688.JPG

 

このため、これ以降の時代はひたすら東を目指して拡大していくことになった。
ヨーロッパ諸国と戦う場合と異なり、アジア諸国とは技術差が大きいので、城攻めは包囲ではなく、すべて突撃によって行うことにした。戦争を早期に終わらせ、戦争による疲弊を防ぐという意味もある。中央集権型の国家ではこの数値は特に上がりやすく、前章、ヨーロッパ統一時にはまったくもってひどい目にあった。
また、アジア方面での戦いではエジプト領(デルタ・エジプト・ナイル)が重大な役割を果たした。私は、徴兵は主にオーストリア・ザルツブルク・オーデンブルク・シュタイエルマルク・チロルの5州で行っていた。これらをヴェネチアからデルタまで艦隊で輸送し、エジプトを経由、ナイルで再び乗船しペルシア・インド・東南アジアへと兵力を展開していった。このルートの存在があったために、アジア戦線において兵力が不足すしたことはほとんどなかった。

さて、この時代のアジア方面は以下のような状況であった。

<1688年の中央アジア・インド>

アジア1688a.JPG

まずはオスマン帝国。もはや昔日の面影はないとはいえ、その勢力・動員力にはあなどれないものがある。ちなみに未だにスペインと戦争中。次にペルシア一帯を支配するサハヴィー帝国。そしてインド北部を支配するデリー朝。これら3国が筆頭勢力といったところであろうか。如何にしてこれらの力をそぎ、領土を奪っていくかがこの時代の焦点になった。

 

以下では、オイゲン公を中心にして、ドイツがアジア・インドで勢力を拡大する過程を追っていきたい。

 

史実におけるオイゲン公

前章の最後でもチラリと説明したが、オイゲン公はハプスブルク家に登場する最強の指揮官である。ゲーム全体を見渡してみても、オイゲン公より能力の高い指揮官はナポレオンやフリードリヒ大王、グスタフ・アドルフなどごく一握りである。
戦略の項でも話したが、この時代は「突撃」を主体に戦争が行われた。ために、オイゲン公の存在はドイツ軍にとって重要な意味を持った。この時代になると各地で「普通」サイズの要塞もちらほら見かけるようになる。如何に陸軍LVに差があろうとこういう要塞を抜くのは容易なことではない。ところが、オイゲン公の突撃はノーマル指揮官なんかとはわけが違い、突撃開始と同時に敵の士気値を見る見るうちに減らしていき、あっという間に城を落としてしまうことができるのである。そういうわけで、オイゲン公は高いレベルの要塞を、ノーマル指揮官は低いサイズの要塞を、といった具合に戦争が行われ、ためにこの時代においてオイゲン公はほとんど全ての戦争に関わることになった。彼は42年間、ペルシア・インド・東南アジアと駆け回り、はては中国の上海にまで到達したのである!
その活躍の詳細は次の項譲るとして、ここでは史実におけるオイゲン公―なにゆえそんなに能力値が高いのか―を見ていきたいと思う。

 

<オイゲン公の肖像画・Wikipediaより転載 >

オイゲン.JPG

この肖像画、どことなく俳優の田村正和さんに似ていると思うのは私だけでしょうか・・

 

この人、本名はオイゲン・フランツ。イタリアのサヴォイア公の男系子孫にあたることから公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれる。ちなみにゲーム中では「プリンツ・オイゲン」として登場。日本では、プリンツはしばしば「公」と訳されることから「オイゲン公」と呼ばれることが多い。

オイゲンは、1663年にサヴォイア家の分家筋にあたるフランス貴族の家に生まれるが、長男ではなかったため伯爵を継げず、軍人となる道を選んだ。はじめは時のフランス王ルイ14世に仕えようとしたが、まったく相手にされず、20歳のときにオーストリアにわたり、レオポルト1世に仕え、オーストリア軍の将校となった。

オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、オスマン帝国による1683年の第二次ウィーン包囲に始まる。当時ハプスブルク家はハンガリー王冠を所有してはいたものの、その北部の一部を領有するに過ぎず、大部分はオスマン帝国の統治下にあった。オイゲンは、1683年より始まったこのオスマン帝国との戦いでメキメキと頭角を現していく。

彼は、まず1686年にオスマン=トルコのハンガリーにおける軍事拠点となっていたブダを攻略、その翌年、かつてトルコ軍によってハンガリー軍が敗北せしめられたのと同じモハーチにおいて、今度はトルコ軍を敗北させ、ハンガリー全域を制圧した。そして1697年ゼンタの戦いで、彼は最高指揮官として奮闘し、オスマン=トルコのハンガリーにおける脅威を完全に除くことに成功。これに続くカルロヴィッツ条約(1699年)で今のハンガリーを含むドナウ川中流域の全部をハプスブルク家が領有することになった。この条約は、オスマン=トルコのヨーロッパにおける勢力後退と、ハプスブルク家の東欧における覇権の確立という、世界史的に見ても非常に重要な意義を持つもので、オイゲンはその第一の立役者であるといえよう。 また、オイゲンは1701年より始まったスペイン継承戦争でも戦術の妙を発揮し、ハプスブルクの隆盛に尺力した。

その後も生涯をオーストリア軍の将軍として生きたオイゲンは、レオポルト機▲茵璽璽姚機▲ール困離魯廛好屮襯三代に仕え、1736年にウィーンで没した。オイゲンは、対オスマン、対フランス戦において多大な軍才を発揮したほか、時のオーストリア皇帝カール6世から長女のマリア・テレジアの結婚相手について相談されたときに、ロートリンゲン公の孫フランツ(のちのテレジアの夫フランツ機砲魘く推挙したり、テレジアがハプスブルク領を相続することを列強に認めてもらおうと血のにじむような譲歩を重ねるカール困法崋村舛鯣爾錣覆せ羸擇譴魏女に残すよりも強力なな軍隊と豊かな財産をのこす方がましである」と進言したりと(これは後のオーストリア継承戦争においてまさに現実のものとなった)、政治的な分野にも精通していたことは間違いない。 

 

史実におけるこのような功績が評価され、このゲームにおいてオイゲンは、ヨーロッパでも屈指の能力値を誇る指揮官としての登場を許されたのであろう。

 

東方遠征前期・インド到達(1691〜1697)

さて、実際の展開である。1688年にオイゲン公はエジプトに赴任。その3年後、1691年より始まった第二次オスマン帝国戦がオイゲン公の初陣となった。

恥ずかしながら、私はこのときオイゲン公のことなどは露知らず。アレクサンドリアを中心としたオスマン領エジプトを攻撃中の部隊の中に、妙に強いのがあるなあとか思って、クリックしてみたら指揮官に「Prinz Eugen」とあり、誰?とか思いつつ能力値を見たらめちゃくちゃ高い。んで色々調べたら只者じゃないことがわかりまして・・(汗) まさにこの戦いを機にオイゲン公はドイツ王(プレイヤー)にその価値を見出されたわけであります。

さて、オイゲン公の活躍によりオスマン帝国は開戦から1年後には降伏。シリアを中心とした5州(シリア・シナイ・ヨルダン・サマリア・ユダヤ)をドイツ王国に割譲した。これによりドイツはエジプトとカスピ海沿岸の領土を接続させることに成功した。

シリア獲得によりサハヴィー帝国と国境を接することになったため、その直後に宣戦を受ける。シリアから敵地に侵入したオイゲンはここでも突撃を中心に次々敵方の城を占領していき、やはり1年足らずで敵を降伏、6州を割譲させる。

さらにオイゲンは、その3年後の1697年には7万の兵を従えて、割譲間もない旧サハヴィー帝国領イスファハーンより海路インドへ。ヴィジャナガルに対しローンによって大義名分を得て、戦争をふっかける。ここをわずか10ヶ月で降伏に追い込み、首都州以外の全州をはぎとった。これによりドイツは南インドに確たる拠点を築くことに成功。エジプトを発ってからわずか6年、オイゲンのはかりしれない能力がうかがえる。

<1697年の中近東、及びインド>

1697.JPG

 

東方遠征中期・ドイツ包囲網(1699〜1708)

さて、1699年、休戦期間の切れたサハヴィー帝国から宣戦を受ける。インドからオイゲンを派遣、ホルムズより上陸させ、サハヴィー帝国の辺境領を攻撃するとともにシリア方面からも一軍を編成、敵首都を衝く。戦線は終始こちらに有利で、敵を1年ほどで降伏、6州割譲に追い込む。1702年にはヴィジャヤナガルとの休戦期間が切れるので、終戦後再びオイゲンをインドへ派遣。ヴィジャヤナガル戦に備える。

1702年、ヴィジャヤナガルがオリッサ・マラーティとともにドイツに宣戦。用意していたオイゲン軍7万はこれらインド東岸諸国を蹂躙し、やはり開戦から1年で片をつける。

ここまでは外交政策がうまくいき休戦期間をうまく調整できたので、敵をひとりずつ順番に倒すことができ非常に楽だった。また、オイゲン公の卓抜した能力のおかげでどの敵も1年ほどで戦果99%、降伏に追い込むことができたので、戦争による疲弊も積み重ならず国内も安定していた。東方遠征も楽勝かと思われたが、実はこの後とんでもない罠が待ち受けていたのである。

<1703年の中近東、及びインド>

1705.JPG

 

1705年、休戦期間の切れたサハヴィー帝国から宣戦を受ける。第三次ペルシア戦役の勃発である。これと同時についにスペインとの講和を締結させたオスマン帝国がわが国に宣戦。オスマン帝国はなんとデリー朝と同盟を結んでいたため、ここに、三帝国による見事なドイツ包囲網が完成した!

包囲網.JPG

 

予期せぬ出来事にしばし呆然。なにしろ戦線が広大すぎる。オスマン帝国がスペインと講和することを予想していなかったため、オスマンとの前線にはほとんど守備兵はおらず、同盟国として参戦したデリーにはインド方面を脅かされる始末。だが泣き言ばかり言っているわけにはいかない。ここは敵を各個撃破していくしかないだろう。

オスマン帝国・デリー朝から宣戦を受けたとき、オイゲン率いるドイツ軍主力はすでにインドを発ちサハヴィー帝国へと向かっていたので、そのまま侵攻させることにする。この戦争で恐らくサハヴィーからはデリー朝と隣接する地方をぶんどれるはずなので、オイゲン軍はサハヴィー攻略後はそのまま陸伝いにデリーに向かわせ、インド遠征軍の主力とする。それまでインド方面はわずかな現地兵で支えるしかあるまい。オスマンの方は、幸い本土と近いためオーストリアで徴兵した兵をすぐに投入することにする。主力が到着するまでは傭兵達に活躍してもらうことにしよう。

こうして、開戦から1年後、オイゲンが包囲網の一角、サハヴィー帝国を打ち倒すことに成功。しかしここで計算外のことが二つ起こってしまった。一つ目はサハヴィーがデリーと隣接するカンダハルの割譲に難色を示したこと。あまり和平交渉を長引かせたくはなかったので、しぶしぶ首都州タブリーズとカンダハルを除く州の割譲で手を打つ。仕方なく、オイゲン軍は海路にてデリー領インダスへ向かわせることに。そして二つ目は、サハヴィー帝国の北辺を獲得したことで、ウズベクやアフガニスタンと領土が隣接し、ここから宣戦を受けてしまったのである!

ウズベク.JPG

ここではヨーロッパ同盟を活用することにした。そう、北方の雄、ロシアにウズベク・アフガニスタンと戦ってもらうのである。このまま参戦を要請すると断られかねないので、同盟国にありったけの金を贈り参戦を要請したところ、3国とも快諾。こうしてドイツは、晴れてオスマン、デリー二国との戦いに専念することが可能になったのであった。

さて、東方遠征中最大の強敵となったのは、オスマン帝国でも、サハヴィー帝国でもなく、実はデリーであった。これは意外に思われるかもしれない。デリーは全土に「普通」サイズの要塞を配備しており突撃が成功しづらく、かつ、州の供給限度が低いため、包囲による陥落もままならず、オイゲン以外のノーマル指揮官にとっては悪夢のような地であった。オイゲン自身も、時々突撃が失敗し、その直後に敵兵との戦闘になり一敗地にまみれることもあって、そのたびにオイゲンが戦死でもしないか冷や冷やものであった。また、デリーのみは、オイゲンが本格侵攻を開始してから降伏まで2年は持ちこたえており、ここからもデリーの意外な強さがわかるであろう。オイゲンがいなかったらと思うとまったく持ってゾッとする相手である。

その後、1707年にはオスマンを、翌1708年にはデリーを降し、ようやく和平にまでこぎつけることができた。この三帝による包囲は東方遠征中最大のアクシデントといってよかったが、これを乗り越えたことでドイツの中近東、インドにおける勢力は飛躍的に拡大し、まさにアレクサンドロスの大帝国の如き様相を呈してきた。

遠征開始から17年、オイゲンはまさにアジアを制覇しつつあった。

<1708年の中近東、及びインド>

1708.JPG

 

東方遠征後期・最後の敵(1708−1730)

ドイツ包囲網を打ち破り、ペルシア・インドの大半を手中にしたドイツ。サハヴィーやオスマン、デリーはもはや戦う力を失っており、ここら一帯はほぼ片付いたといっていいだろう。となればこの地にはもはや用はない。ドイツ王国躍進の立役者、オイゲンの目はさらに東方を見据えていた。そう、中国を中心としたアジア諸国がオイゲン公の次なるターゲットである。

1708年のアジア方面の勢力図は以下のようになっていた。

<1708年のアジア>

1708アジア.JPG

ここで目立つのはなんといっても中国の存在であろう。このとき中国は清王朝の時代。しかもどうやら全盛期にあたるようで、その国土は、ほぼ現在の中華人民共和国に匹敵するほどの広大な地域に及んでいた。数えてみたら実に62州。一回で6州ずつ奪っていったとしても10回は戦争しなきゃならないわけで、下手したら1819年の終了までに中国を併合できない恐れもある。ホント、最後まで楽させてくれないゲームだわね。まあ世界征服するように作られてないから当然っちゃ当然なのだが。。なにはともあれ、ドイツの世界征服を阻む最後の敵として中国の存在が浮上してきたことに間違いはない。

というわけで、時間的にももう余裕がないとの判断から、中国遠征計画が始動。ベンガル→アユタヤの順に攻略し、東南アジアに確たる拠点を築き上げた後、中国攻撃というのがグランドラインである。もちろん、中国遠征軍の総司令官はオイゲン公。ベンガルとの国境地帯に続々と兵員を配置していく。

1712年、休戦期間のきれたベンガルから宣戦を受ける。1713年6月には首都州以外の全州を割譲させ講和。これにより領地が接触し、中国、アユタヤから宣戦を受ける。アユタヤの方は1714年11月には降したものの、中国は莫大な数の兵力を投入してきたために(ひとつの州に普通に10万とか20万とかいましたね汗)、各地で我が軍が押され始める。また、対アユタヤ戦にて思ったよりも兵を損耗しており、戦争の継続は不可能と判断、小額の賠償金を支払って和平にこぎつけた。

<第一次中国遠征の結果>

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中国攻撃には失敗してしまったものの、インドシナの大半を獲得した。これで次回以降の中国戦を有利に戦うことができるだろう。

さて、第一次遠征から5年、今度は前にもまして軍備を整え中国戦に臨む。やはり中国の動員力に押されつつも、こちらもエジプト基地から絶え間なく兵を輸送、次第に中国を押し始める。こうして開戦から1年、5州を割譲させて講和。以後、休戦期間の切れるごとに中国遠征を繰り返し、着実に領土を奪っていく。なお、第四次遠征については、休戦期間は切れていなかったものの、中国の同盟国朝鮮に宣戦し、同盟主の中国を無理やり引き込む形で戦争を行った。

<中国遠征図>

中国遠征図.JPG

ちなみに、オイゲンは4回目の遠征のときに上海を占領した。COTがあったために州の価値が高く、割譲までは至らなかったが、オイゲンもまさか自分が中国の大地、それも上海をふむことになろうとは、40年前にエジプトに赴任したときには夢にも思わなかったことだろう。こうして、4回目の中国遠征を終えた直後、オイゲンも退官を迎えた。この頃にはオイゲンが先鞭をつけたペルシア・インド遠征も完成をみており、あのあたり一帯は完全にドイツの支配下となっていた。

<アジア1730>

アジア1730.JPG

ずいぶんきれいになったアジア勢力図。ってかめぼしい国は中国、日本くらいしか残っていない!ほんとにオイゲン様々である。ハプスブルクでやるときには皆様もぜひこの有能な指揮官を使い倒してやってくださいね。


オイゲン公の活躍により、中国を除くアジア大陸の大半がドイツの手に帰した。ドイツ軍の侵攻により、今や残っている国も数えるほどしかない。世界征服は目前である。

次章、いよいよクライマックス、ドイツは世界征服を達成することができるのか!?

 

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Last-modified: 2006-07-14 (金) 21:46:17