イスラム帝国とは、イスラム国家の帝国的な支配体制のうち、 アッバース朝において実現された、ムスリムであれば平等に支配される国家体制のこと。
正統カリフ時代からウマイヤ朝の時代において、ムスリムであっても軍人として俸給(アター)を受け、人頭税(ジズヤ)を免除されるのはアラブ人のみというように、アラブが支配階級として君臨していた体制を指して「アラブ帝国」と呼ぶのに対比する形で用いられる。

このAARは、ヌラディン、サラディン、アル・アーディル、アル・カーミルの4人が、イスラム帝国再建を目指して奮闘する物語である。

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使用国:ザンギー・アイユーブ朝
環境:英語版1.09+MES0.35a 1.09対応版
シナリオ:1150グランドキャンペーン
難易度:非常に難しい
AIの攻撃性:臆病

これは、アイユーブ朝AARです。ですが、シナリオ開始時に選べる「アイユーブ朝」は、実は「ザンギー朝」という表現が正解です。アイユーブ朝は1171年にサラディンによって創設される王朝ですから、1150年時点では影も形もないわけです。一応、アイユーブ朝はザンギー朝からの派生なので、ザンギー朝から変体してアイユーブ朝に、という流れはすごくうなずける話ではありますので、このAARでは「Ayyubids」→「Zengi-Ayyubids」と国家名をマイナーチェンジしてプレイすることにしました。

目次

プロローグ 

西暦1150年1月、イスラム世界は千々に乱れていた。イスラム世界を主導するはずのアッバース朝カリフは実権を失って久しく、セルジューク朝トルコの傀儡におちていた。西方にはファーティマ朝、ムワッヒド朝といった強力な王朝が並存しており、イスラム世界の統一は夢のまた夢という状況であった。 そんなイスラム世界の混乱をぬって、フランク人が攻めてきた。十字軍である。 中近東の地中海沿岸部を征服した十字軍は、そこにエデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領、エルサレム王国を建国した。

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モースルとアレッポの太守たるイマードゥッディーン・ザンギーは、十字軍に対して、イスラム世界として最初の組織的な反撃を行い、エデッサ伯領の首都エデッサを陥落させた。十字軍国家群の一角を崩したザンギーは一躍イスラム世界の英雄として称えられたが、1146年に奴隷により殺されてしまう。 ザンギーの次男、ヌラディンは、父よりアレッポを中心とするシリア一帯を相続し、その若き野望を昇華せんとしていた・・。

第一章 ヌラディンの時代(1150-1171)

この時代の戦略

西暦1150年の情勢
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シナリオ開始時のザンギー朝の支配領域はヌサイビン、シリア、ヨルダンの3州である。 冒頭でヌラディンは父ザンギーからアレッポを中心とした地域を相続した、と書いたが、 ゲーム上の州割の関係があって、ゲームにおける「アレッポ州」はアンティオキア公国 に割り当てられている。また、ザンギー朝が所有する「シリア州」の州都は「ダマスクス」となっているが、実際にヌラディンがダマスクスを手に入れるのは1154年のことである(これはゲーム内においてイベントによって再現されている)。なので、このAARをお読みになる、あるいはアイユーブ朝でプレイされる皆様におきましては、アンティオキア公国は、「アンティオキア(アレッポ州)」を、ザンギー朝は「アレッポ(シリア州)」を領有しているものと脳内変換していただければ幸いである。

さて、私が設定したヌラディン時代の目標は、以下の3つ

.癲璽好襦▲レナイカとの同盟
▲▲奪弌璽皇の属国化
シナイ、ユダヤ、アレッポの領有

,亡悗靴討蓮▲癲璽好襦▲レナイカは小国なので、難易度最高でやる場合かなりの小国ボーナスがあるため、4万〜5万の部隊を溜め込むことがザラにある。これらの国との戦争を回避し、目標とする州を獲得していくため、この二国とはシナリオ開始と同時に関係を改善していき、同盟を組むことにする。

次に△砲弔い討世、バグダードのCOTは魅力的すぎる。以上。なるべく早期にアッバース朝を併合して、COTを手に入れたい。そのための布石としてヌラディン時代に少なくとも属国化までは済ませておいて、サラディン時代に外交併合するのがよいと思う。戦争のタイミングだが、これは,鮹成し次第としたい。理由は、アッバース朝も小国ボーナスがあるので、年を経るにつれて部隊を溜め込んでいく傾向にある。このため、こちらの準備が整い次第、理由なし宣戦して、属国化することをおすすめする。なお、シナリオ開始時アッバース朝はセルジューク朝の属国だが、1153年4月にセルジューク朝からの独立イベントが発生するので、これは気にする必要はない。

最後にについてだが、シナイはファーティマ朝から、ユダヤはエルサレム王国から、アレッポはアンティオキア公国を併合したどこかの国(スタートから10年もするとたいていルーム・セルジュークかトリポリ伯領に併合されている)から奪取する。シナイは、1167年に発生するファーティマ朝属国化イベントのトリガーとなるので絶対に取らなければならない。ユダヤ、アレッポは課税額が高いので、順次奪って策源地とする。ただし、アレッポ領有は、1157年に起こる「大地震」イベントの後にとったほうがいい。大地震のときにアレッポを領有していると、25D支払うはめになるからだ。

軍隊は中近東の平野、砂漠で戦うことを考えて、騎兵中心の運用を、ドメスティックスライダーは、最初陸軍主義に、次いで貴族主義に振っていった。

第一節 ヌラディン、カリフを奉戴する

1146年にザンギーは暗殺され、長男のサイフッディーン・ガーズィーには父の本願地であったモースル(キルクーク州)が、次男のヌラディンにはアレッポ(シリア州)が与えられた。兄のサイフッディーンが1149年に亡くなると、モースルはヌラディンの弟のクトブッディーン・マウドゥードが継承したが、ヌラディンとクトブッディーンの関係は当時のイスラム世界の常識からは考えられないほど良好で、1150年1月、両者は同盟関係を結んだ。

ヌラディンの父ザンギーは、確かにエデッサ伯を打ち破り、モースル、アレッポを中心としたザンギー朝を打ち立てた英雄であったが、その父でもダマスクスを支配するブーリー朝と、アッバース朝との抗争に勝利することはできなかった。若きヌラディンは、父が成し得なかったダマスクス領有、そしてアッバース朝を自らの影響下におくことを、自らの人生における最初の目標に設定した。

ダマスクスを取り、アッバース朝を従える。カリフの権威を錦の御旗に中近東一帯を切り従え、力をつけてファーティマ朝を討ち滅ぼし、イスラム世界をスンニ派で統一する。これが彼が描いた青写真であった。

ヌラディンは、まずは軍隊の増強に取り掛かった。中近東の平地や砂漠では、騎兵の突撃がものを言う。ヌラディンは自身の軍隊を純粋な騎兵のみに統一することを決めた。しかし、騎兵を集めるには金がかかる。ヌラディンは歩兵部隊を解散し、軍の維持費を削減するとともに、国家収入のすべてを使って騎兵隊を編成し始めた。折しも、元エデッサ伯ジョスリンの身代金50Dが臨時の収入としてあり、これは彼にとって天からの恵みであった。

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 二つ目の選択肢を選ぶと、50D得ることができる


ヌラディンはこの金を使って、後に周囲から「ザンギーの騎兵隊」と畏怖されるようになる屈強な騎兵部隊を創設した。その数およそ1万。ヌラディン自身が教鞭をとった念入りな訓練が終了した1151年5月、彼はアッバース朝に襲いかかった。

 開戦時の状況
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 ヒストリカルリーダー・ヌラディンにも注目。能力的には少し物足りない。


アッバース朝にとってザンギー朝からの宣戦布告は寝耳に水であった。ザンギー朝は開戦の大義名分を持っていなかったからだ。バグダードの守備隊2千は、ヌラディン率いるザンギーの騎兵隊に簡単に蹴散らされ、1152年4月にはバグダードは陥落した。カリフ・ムクタフィーはバスラ州に撤退し、しぶとく抵抗を続けることになる。また、バスラ攻囲のかたわら、ヌラディンは謀略によってダマスクスを占領し、ブーリー朝を滅ぼした。

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 ダマスクス占領はイベントによって表現されている
二つ目の選択肢を選ぶと、BBR+1されるが、中央集権化が1、
シリア州の課税額、マンパワーも1上昇する。今回はこれを選択した。


バスラは、4年に及ぶ攻城戦の末、ついにザンギー朝の軍門に降ることとなった。こうしてヌラディンは、ブワイフ朝のムイッズッダウラ、セルジューク朝のトゥグリル・ベグに続きバグダード入城を果たした、3人目の英雄となった。ザンギーの騎兵隊は拡張され、その定数を1万2千とした。以後、彼はスルタンを称し、カリフの権威の名のもとに、中近東全域を征服していくこととなる・・。

第二説 ファーティマ朝との戦い

1156年2月、アッバース朝の全土を占領したヌラディンは、バスラ州割譲とアッバース朝の属国化、175Dの支払いを条件に講和を結ぶ。

同年5月にはエルサレム王国を攻撃し、1157年1月にユダヤ州割譲と43Dを条件に講和を結んだ。史実より実に30年早い聖地奪還である。エルサレムの解放に、イスラム世界は歓喜した。ヌラディンの名声は嫌が応にも高まっていった。

中近東に確固とした勢力を築きつつあるヌラディンの目はエジプトに向くこととなる。

ファーティマ朝は、元来チュニジアに建国されたシーア派王朝で、最盛期は北アフリカからエジプト、シリア、アラビアに至る強国であったが、10世紀末にシリアで土着のスンニ派勢力による反ファーティマ朝の動きが広まったことを皮切りに、次第に勢力を失うようになり、今ではほとんどエジプトのみを支配するに過ぎなくなっていた。とはいえ、肥沃なナイル河流域、交易の中心地カイロを領するファーティマ朝は、依然として侮ることはできない勢力として、イスラム世界に君臨していた。

しかし、1149年に12代カリフのハーフィズ死後、ザーフィル、ファーイズと幼帝相次ぎ、宰相の地位をめぐる軍人たちの争いが一切の抑えを失って政治はますます混乱した。

この隙をヌラディンが見逃すはずはなかった。 ファーティマ朝の混乱に乗ずる形でヌラディンは宣戦布告、電撃的にシナイ州へ侵攻した。時は1157年1月、エルサレム王国との終戦からわずかに10日後のことであった。

 開戦時の状況
対ファーティマ戦.jpg


ファーティマ朝の軍隊は、最早崩壊しており、ほとんど組織だった抵抗もできぬまま、ザンギーと反乱軍によって国土を蹂躙されていった。

ほとんど順調に思えたエジプト侵攻であったが、ここで思わぬ出来事が起こる。 1157年8月、シリア一帯を大地震が襲ったのだ。

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 シリア、アレッポ、ヌサイビンを所有している国家に起こるイベント
今回はシリア、ヌサイビンを所有していたので50Dを失った。地味に大きい。


さらにそれに追い打ちをかけるように、ヌラディン自身、病に倒れてしまう。 ヌラディンは軍の指揮権を将軍シールクーフに委ね、自身は単身ダマスクスへと帰還した。

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 このイベントでヒストリカルリーダーとしてのヌラディンを失う。


ヌラディンは幸い一命をとりとめた。 ザンギーの騎兵隊を引き継いだシールクーフは首尾よく戦い、1158年にはシナイ州、カッタラ州の割譲と54Dを条件に講和が結ばれた。この軍事行動によってザンギー朝はファーティマ朝への影響力を強め、これが後のサラディンによるファーティマ朝併合へとつながっていく・・。

第三節 サラディン登場

ヌラディンが病気を境に軍の一線を退いた後も、将軍シールクーフに率いられたザンギーの騎兵隊は各地を転戦し、1158年にはアンティオキア公国を滅ぼしたルーム・セルジューク朝と戦端を開き、1162年にアレッポ州を割譲させた。

これで先に述べた「ヌラディン時代の目標」のすべてを達成した。この時点におけるBBR=8.3、インフレ率は5.0%である。また、年初の収入は60Dに達した。

1167年1月、ついにサラディンが登場。

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 指揮官としても優秀なサラディン。ちなみに下は叔父さんのシールクーフ。


ヌラディンのシナイ州侵攻以後、ファーティマ朝の混乱はひどくなる一方であった。カリフの座には無能な若者、ハレムの中の生活しか知らないアル・アーディドがついており、政治は宰相であるシャワールが取り仕切っていた。シャワールはこの混乱に乗じて自らの権力の増大を期して策をめぐらせていたが、それを息子のカミルに知られてしまう。カミルはシャワールとは険悪な関係にあり、シャワール打倒のために、ヌラディンに軍の派遣を依頼することにした。

ヌラディンは、今やシリア・イラクを中心に7州を領有する大勢力になっており、これに加えてアッバース朝カリフを奉戴(=傀儡と)していた。

西暦1167年の情勢
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亡き父の夢を果たし、今や中近東で最強の実力者となったヌラディンは、二つ返事でカミルの要請に応える。エジプトを手に入れるまたとない好機だ。ヌラディンはザンギーの騎兵隊を将軍シールクーフに預け、早速エジプトへと派遣する。このときシールクーフに同行してエジプト入りしたのが、30歳になる、シールクーフの甥・サラディンだった。この男の存在が絶頂にあったヌラディンをどん底に叩き落とすことになろうとは、この時のヌラディンには知る由もなかった・・。

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1167年8月、史実よりは1年あまり早く、ファーティマ朝の属国化は成った。 シールクーフ率いる軍は、カイロに到着し、カミルの手引きもあって迅速に事を終えた。 宰相シャワールは、サラディンによって殺害され、代わりにシールクーフがファーティマ朝の宰相となった。

ヌラディンは、首尾よくエジプトの保護国化がなったことに満足すると、アッバース朝の要請に従って、次はセルジューク朝への遠征を企図していた。大セルジューク朝は、ヌラディンの元、ひとつにまとまっていったシリア・イラクとは全く逆で、今や完全に崩壊していた。イランは小軍閥が割拠する、戦国時代へと突入していた。ヌラディンは、エジプト制覇が成った翌年、1168年にはザンギー騎兵をエジプトから戻し、セルジューク・トルコ戦線に投入した。攻略目標は、往時にはセルジューク朝の首都が置かれていたという、タバリスタン州レイである。課税額は16Dもあり、ここをとることでザンギー朝はますます精強になるであろう。この戦争では、宰相となってカイロにとどまる事になったシールクーフに代わり、サラディンがザンギー騎兵の指揮をとった。サラディンの軍事的才能は傑出しており、翌1169年2月にはタバリスタン州、アフワーズ州の割譲を条件に講和が結ばれた。

こうして、わずか20年の治世の間にヌラディンはエジプト、シリア、イラク、そしてイランの一部にまたがる強国を作り上げた。

西暦1169年の情勢
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シールク−フの代わりに軍の実権を握った若きサラディンは、ヌラディンの築き上げた王国をもとに、イスラム世界の統一、イスラム帝国の樹立という、途方もない夢を描いていた。

第二章 サラディンの時代(1171-1193)

第一節 サラディンの台頭とヌラディンの失脚

1170年12月、ファーティマ朝の宰相となっていた将軍、シールクーフが突然死んだ。 浴室で滑って頭を打ったというのが原因だという。

ヌラディンは混乱状態に陥ったエジプトを鎮定するために、ザンギー騎兵を指揮するサラディンにエジプト入りを命じた。サラディンはザンギー騎兵全軍を率い、翌1171年にカイロに到着した。

カイロに到着したサラディンは、ザンギー騎兵の力を背景に、自らファーティマ朝の宰相に就任した。31歳になったばかりの若者がエジプトの実質上の支配者となったのだ。

サラディンが宰相に就任し、エジプトを掌握した直後、ファーティマ朝カリフ・アル・アーディドが急死した。サラディンはこれを見るや直ちにアッバース朝のカリフに接近し、自らをスルタンに任命させた。さらにヌラディンに対し、アイユーブ朝の創設と、ザンギー朝からの独立を通達した。こうして、ヌラディンの思いもよらぬ形で、シーア派王朝としてのファーティマ朝は滅亡し、エジプトのスンニ化が達成された。

エジプト併合
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西暦1171年の情勢
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ヌラディンの最大の誤算はサラディンの野心を見抜けなかったことだった。 サラディンの叔父、将軍シールクーフがヌラディンの忠実な部下であったことも、冷徹なヌラディンの目を曇らせた原因のひとつであったかもしれない。あるいは、権力の絶頂にあったヌラディンがただ単に油断していたのかもしれない。いずれにせよ、ザンギー騎兵をサラディンに任せたのは、彼の人生における最大の失敗だった。

ザンギー騎兵の武威は、中近東全域に鳴り響いていた。成り上がりであったヌラディンは支配の正統性を血統ではなく武力に委ねるしかなかった。すなわち中近東最強のザンギー騎兵を率いる者が、中近東の覇者たりえるのである。その原理を、秩序を作ったのは他ならぬヌラディンだ。アッバース朝も、モースルも、キレナイカも、ヒジャーズも、ザンギーの同盟者たちはこぞってこの中近東の新たな覇者、サラディンに対して忠誠を誓った。ヌラディンは完全に孤立した。

1174年、ヌラディンは失意の内に病死する。 ヌラディンがその半生をかけて築き上げた「王国」は若きサラディンの手にほとんどそのまま継承されることとなった。こうして、イスラム世界は新たな時代を迎えることになる。

この時代の戦略

西暦1171年のイスラム世界
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黄線で囲まれた国がアイユーブ朝とその同盟国


現在のBBR=10.4

ヌラディン時代に、中近東一帯の中核州はほとんど全て回収してしまった。 ここからの拡大はBBRに制約されることになる。このため、拡大の方向は慎重に選ばなければならない。ザンギー・アイユーブ朝は当初クルド、トルコ文化の二つを持っており、 1165年に起こる「Egypt must be ours!」イベントにより、さらにアラブ文化を獲得する。このため、これら文化圏の統一が次なる目標となるだろう。

アイユーブ朝の拡大方向としては、

プラン A : 北方へ侵攻:ルーム・セルジューク朝やローマ帝国と戦い、アナトリア全域を手中に収める。

プラン B : 西方へ侵攻:ムワッヒド朝との対決。最も困難だが、熱い展開。

プラン C : 東方へ侵攻:大セルジューク朝亡き後のペルシアへ侵攻し、ここを統一する。

プラン D : 南方へ侵攻:ヒジャーズやイェーメンはイベントによって属国化できるので、それ以外のアラブ諸侯を降し、アラビア半島を統一する。

この4つが考えられるが、国家的にも、AAR的にも、一番おいしいのがプランBでないかと思う。 理由は、ムワッヒド朝の支配領域がスンニ派で、イベリア半島を除いてほぼアラブ文化であること、また、アンダルシアにCOTがあることが挙げられる。また、課税額も、アンダルシア(15D)、フェズ(12D)、タンジール(8D)、ジブラルタル(7D)と、比較的豊かで、これに比べると、アナトリアは課税額が5〜6Dと旨みに欠ける。また、ペルシア方面はサマルカンドCOTをはじめとして、豊かな州は多いのだが、文化圏が違うので税収にペナルティを受ける。また、小国を切り従えていくよりも、順調にいけばここら地域はホラズムにより統一されるので、ホラズム一国を相手にした方が楽であると思われる。アラブ諸侯はBBRが限界に達した後で、外交で属国化していけばいいし、なによりここも課税額が軒並み低い。

これらを踏まえて、私はサラディン時代の目標を、以下の2つに設定した。

.▲奪弌璽皇の外交併合とバグダードCOTの獲得

▲爛錺奪劵苗の属国化とアンダルシアCOTの獲得

ひとつ注意だが、独立したダマスクス(=ザンギー朝)は放っておいたほうがいい。 1175年にシリア侵攻イベントが発生し、再びシリア州が中核州化するが、ここを征服、併合してもサラディン死亡時、アル・アーディル死亡時、アル・カミール死亡時の都合3回、アレッポ、モースル、ダマスクスの独立イベントが発生し、アイユーブ朝は長期にわたって統一を維持できない仕組みになっている。ここは完全放置で、併合するにしてもアル・カミール死後の方がいい。私は何度も泣かされた。ちなみにこのAARは、都合4回目のアイユーブ朝プレイになる。

第二節 ヒジャーズ、イェーメンへの遠征

サラディンには、ヌラディン以上の野望があった。ヌラディンの生涯における目標は、ファーティマ朝であった。中近東を制し、ファーティマ朝を討ち、イスラム圏をスンニ派で統一することが彼の目標だった。しかしそれは仕方のないことでもある。ヌラディンはアレッポの太守に過ぎなかった。では、サラディンは。サラディンは、クーデターによって、ヌラディンの勢力を、ダマスクスは除いてほぼそっくり継承したために、32歳にして、エジプト、及び中近東の王である。サラディンの目標は、イスラム帝国の創設であった。ファーティマ朝亡き今、イスラム圏はスンニ派で統一された。しかし、アッバース朝、アイユーブ朝、ムワッヒド朝、ルーム・セルジューク朝、アラブ諸侯、ペルシア諸侯とスンニ派国家は分裂し、いわば群雄割拠の様相を呈している。これをひとつの国家のもとに統一し、往年のアッバース朝のごとき、イスラム帝国を創設することがサラディンの夢であった。この高邁な夢あればこそ、主君を裏切ることも厭わなかった。

さしあたっての目標は、ムワッヒド朝の征服だ。アイユーブ朝の力を示し、ルーム・セルジュークを始めとする中近東諸侯やアラブ諸侯を統合し、最後にペルシア遠征を行う。これによってイスラム帝国は完成する。人生50年、自分に残された20年でどこまで夢に迫ることができるのか、サラディンの挑戦が始まった。

しかし、その道は険しい。 サラディンは、いわば下克上によって中近東の王となった。 故にサラディンがスルタンに即位した当初は反発も強かった。 なかでも、最も過激に反応したのがマックラ(=ヌビア)であった。

1171年、突然マックラに宣戦布告される
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マックラを征服しても、課税額は低いし、BBRは上がるし、いいことはなにもない。


サラディンは自らザンギー騎兵を率い、マックラ討伐に向かった。 しかし、マックラ兵も精強で、サラディンは思わぬ苦戦を強いられる。ヌビア州を巡り、一進一退の攻防が繰り広げられた。

嬉しい報もあった。 サラディンはイスラム教を軸とした帝国創設を考えていたので、メッカ・メディナは自らの勢力圏に置きたかった。サラディンがマックラ戦線に釘付けになっている間に、サラデインの長兄トゥーランシャーがヒジャーズ及びイェーメンの征服に成功したという。

1172年
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1173年
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ちなみに、1228年までにイェーメンを外交併合すると、イェーメン独立イベントが発生する。
独立を拒否することもできるのだが、その場合、1220〜1228年に発生するイェーメン屈服イベントが起こるまで反乱リスクが上がってしまう。

トゥーランシャーの活躍により、エルサレムに続き、メッカ、メディナまでがアイユーブ朝の勢力圏に加わった。間もなくしてマックラ戦も相手側の賠償で講和が結ばれ、サラディンはようやくムワッヒド朝遠征の準備に取り掛かることができるようになった。

第三節 トレムセンの戦い

1174年、サラディンはザンギー騎兵を3万にまで拡張する。 いよいよムワッヒド朝に対する遠征が始まるのだ・・・! カイロのスルタンと、マラケシュのアミールの、アフリカの覇権をかけた戦いが、今、始まろうとしていた。

1175年1月29日、サラディンは、王位の請求によってムワッヒド朝に対する大義名分を手に入れた後、宣戦布告した。アイユーブ朝側には、アッバース朝、キレナイカ、ヒジャーズ、イェーメンが、ムワッヒド朝側にはトリポリタニアが同盟国として戦争に加わった。

開戦時の各国の力関係
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ムワッヒド朝は宋に次ぐ世界第二の大国の地位を占めている。

サラディンは、2万のザンギー騎兵を率いてカイロを出立、トリポリタニアを通過して、チュニジア州へ入った。残り1万の騎兵隊は、トゥーランシャーに任せ、後詰とした。 一方、対するムワッヒド朝はというと、その動員兵力は10万にも及んだ。しかし、その大半は歩兵で、騎兵戦力はわずかに6千に過ぎない。騎兵でいうならばアイユーブ朝側に分があった。加えて、ムワッヒド朝はカスティ−リャと交戦中で、イベリア半島に大半の戦力を投入していたため、アフリカ側は比較的手薄であった。

サラディンは、チュニジア、カビリア、アル・ザジャイール、アウレスとムワッヒド軍を蹴散らしながら進んでいった。そこに後詰のトゥーランシャーが加わり、二人は協力して、これらの州を包囲下においた。カイロからチュニジアまでは、足の早い騎兵でも4ヶ月を要し、サラディンの軍は新兵の補充が困難な状況にあった。故に、一兵たりとも無駄にはできない。各州の供給限界を見つつの、緊張感のある包囲戦が続いた。

包囲は順調に推移し、1176年5月までにこれらの都市を攻略した。とりあえずの橋頭堡を築くことに成功し、ほっと胸をなでおろすサラディン。そこに、イベリア戦線からやってきた、ムワッヒド軍主力が迫りつつあった。その数、およそ5万。サラディンは軍を集結し、戦機を探る。

1176年7月23日、両軍は、オラニア州はトレムセン近郊の荒野で激突した。

トレムセンの戦い
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戦闘後、敵部隊を消滅させることに成功。これがあるから騎兵中心の戦争はやめられない。ロードス騎士団で数多のオスマン歩兵を消滅させた記憶が懐かしい

結果は、アイユーブ軍の圧勝であった。この戦いにおけるサラディンの指揮は冴え渡り、騎兵による包囲殲滅戦法で、敵軍の全てを葬り去った。この戦いは、ヨーロッパ・イスラム世界において、アレクサンドロスのイッソス、ガウガメラの再現とまで噂され、サラディンの武名は鳴り響いた。

この戦闘によって、この戦争の帰趨は決定した。 サラディンは軍を再び二手に分け、アフリカ側をトゥーランシャーに任せると、自身はジブラルタル海峡を渡り、アンダルシア州へ侵攻した。

1178年1月20日にアンダルシア陥落。 同年、5月28日には敵首都マラケシュ陥落。

ここにいたり、ムワッヒド朝アミール、アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世は降伏した。サラディンはフェズ、アンダルシア、チュニジアの3州を要求し、それは聞き入れられた。こうして、サラディンによる、一回目のアフリカ遠征は幕を閉じた。アイユーブ朝には、カイロに続く二つ目の交易の中心地がもたらされた。

第一次アフリカ遠征後
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ちなみに、トリポリタニアはキレナイカに併合された。

第四節 禅譲 

ムワッヒド朝に勝利し、アフリカ遠征を成功させたサラディンの名声はとどまるところを知らなかった。ヌラディンは数年前に病没し、名実ともに、サラディンがイスラム世界の唯一無二のリーダーとして認識されるようになった。

年が明けて間もなく、サラディンはひとつの重要な決断をくだす。
それは、傀儡としていたアッバース朝のカリフに引導をわたすことであった。

1179年2月14日、アイユーブ朝がアッバース朝を併合する。
この報にイスラム世界は激震する。約400年続いたアッバース朝はついにその役目を終えたのであった。カリフの位はアッバース朝のムスタフィーから、アイユーブ朝のサラディンに禅譲された。この日をもって、サラディンはスルタンとカリフを兼ねるようになった。 カリフの称号と、交易都市バグダード。イスラム帝国の再建を目指すサラディンにとって、のどから手がでるほど欲しかった二つのものが、遂に手に入った。あと一歩。イスラム帝国の復活はすぐそこまで来ている。

その後もアイユーブ朝の拡大は続く。
1183年5月には、ザンギー朝の時代から長らく同盟国だったキレナイカを属国化。
1185年11月には、ムワッヒド朝に宣戦布告し、1191年3月にはアルガルヴェ、トレド、エストレマドゥーラ、バレンシア、ジブラルタルの5州を獲得して講和を結んだ。

第二次アフリカ遠征後
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黄線は今回割譲させた州。前回のプレイでは、ムワッヒド朝を痛めつけすぎて、戦後にムワッヒド朝がレコンキスタされてスペイン領土のほとんどを失うという事態が発生したので、今回はキリスト教徒との国境地帯を自国及び属国に割譲させることで、アイユーブ朝がレコンキスタの圧力からムワッヒド朝を守るようにした。

国力の低下著しいムワッヒド朝は、アイユーブ朝の圧力に抗することができなくなっていた。
1191年12月23日、サラディンは外交によって、「平和裏に」ムワッヒド朝を属国化することに成功した。

こうして、イベリア半島からイランに至る広大な領国が、スルタン=カリフ・サラディンの支配下に置かれることとなった。この日をもって、サラディンは自国の国号を、アイユーブ朝イスラム帝国と定めた。ムスリムであれば平等に支配される、理想の時代が到来したのだ。残るはトルコ、そしてペルシア。これら地方の制覇によって、スンニ派の統合が成る。

しかし、サラディンに残された時間はもうなかった。

1193年3月、サラディンは、北方遠征の準備中に病没する。享年55歳。 サラディンの名は、失われしイスラム帝国への道を開いた者として、歴史に永久に刻まれることとなる。

西暦1193年のイスラム世界
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サラディンの20年に及ぶ治世によって、イスラム世界の勢力図は劇的に変化した

第三章 サラディン以後の時代(1193-1238)

この時代の戦略

1193年のBBR:19.1/26

サラディン時代の軍事行動によって、BBRはすでにギリギリである。しばらくは派手な拡張は控えねばならない。私がこの時代の目標に設定したのは以下の3つ。

 .襦璽燹Ε札襯献紂璽朝、アゼルバイジャンの属国化
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 ムワッヒド朝、ルーム・セルジューク朝の外交併合

まず,砲弔い董このAARの今後の大筋の流れとして、次に北方を完全に平定、BBRの低下を待ってルーム・セルジューク朝、アゼルバイジャンの2国を外交併合、その後ペルシア遠征を敢行し、ホラズム、ゴール朝を属国化、アッバーズ朝時代の版図を再現することを想定している。BBRの関係もあって、ペルシア遠征は、マムルーク朝に変体後、バイバルスにその役目を譲ることにして、この時代には北方の制圧・併合と属国の整理統合を行うこととした。

△砲弔い討呂海譴蘰鷙颪鯤珊腓靴董▲▲妊COTを手に入れることを意図している。

については、ムワッヒド朝には1230年に「グラナダ独立イベント」があるので、これが発生する前に外交併合してしまいたい。ちなみに1250年にルーム・セルジューク朝にも「カラマン独立イベント」があるので、ここもなるべく早期に外交併合したいところだ。

第一節 中近東三国志

1193年3月、アイユーブ朝イスラム帝国初代皇帝サラディンが身罷った。 サラディンの死後、カリフ=スルタン位はサラディンの次男、アル・アジーズが継承した。 2代目皇帝の誕生である。アル・アジーズは21歳という若さで皇帝になったが、皇妃との間にすでに男児をもうけていた。 名を、マンスールという。強大な帝国の屋台骨を揺るがすのは世継ぎ争いと相場は決まっている。 その点で、サラディンは後継者に恵まれ、遺言で、2代後までの皇位継承者を指名していくことができた。 この時点では、アイユーブ朝の屋台骨は磐石で、サラディンの血統がイスラム帝国の帝位を継承していくように思われた。

そう、この時点までは・・。

サラディンが2度に及ぶアフリカ遠征を敢行している間、 トルコ、そしてペルシアはそれぞれ独立した政治的統一体を形成しつつあった。 北方はルーム・セルジューク朝を中心として、ダマスクス(=ザンギー朝)、アゼルバイジャン、シルバンとの間に 「トルコ同盟」が成立していた。 また、東方は大セルジューク朝亡き後に興隆してきたゴール朝、ホラズム、この二国を中心として、 セルジューク朝、カラハン朝との間に「ペルシア同盟」が成立していた。

中近東は、カスピ海を中心として、イスラム帝国、トルコ同盟、ペルシア同盟がにらみ合う、いわば三国時代に突入した。

西暦1193年の情勢
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ブルガリアの南進によってビザンツ帝国の領土が侵食されていることにも注目。後のビザンツ帝国滅亡の遠因となった。

この三つ巴の争いを制するのはどの勢力になるのか。三勢力の中、イスラム帝国は頭ひとつ抜けた国力を有しているが、 それでもトルコ同盟とペルシア同盟を同時に相手取るのは厳しい。三勢力の動きが慎重になる。 均衡を破ったのは、イスラム帝国だった。

イスラム帝国2代目皇帝、アル・アジーズには、ヌラディンやサラディンほどの才覚はなかった。 それゆえ彼は父帝に対して著しいコンプレックスを感じていた。彼は自らの力を周囲に対して誇示しようとした。 若さが、それを後押しした。この三国鼎立の均衡を打ち破り、イスラム世界に統一をもたらすのは、自分であると 信じたかった。

1196年、アイユーブ朝はダマスクス(=ザンギー朝)に宣戦布告。 北方はトルコ同盟と交戦状態に入った。この後6年に及ぶ北方戦争の幕開けである。 アイユーブ朝側の同盟軍としては、ムワッヒド朝、キレナイカ、イェーメン、ヒジャーズが参戦した。 この頃から、トルコやペルシアの山岳地帯で戦うことを考え、歩兵が軍に採用されるようになる。 今回アル・アジーズが用立てたのは、歩兵2万、騎兵2万の計4万の兵力であった。

シリア州はダマスクス近郊にて敵軍主力を打ち破ると、アイユーブ朝軍はじめ、ムワッヒド朝、キレナイカ、イェーメンら同盟軍は 敵国各州へ侵攻していった。 戦争は順調に推移していき、1198年にはダマスクスを降伏に追い込んだ。 ダマスクスは、アイユーブ朝にヌサイビン、サマリア州を割譲。アイユーブ朝は単独講和したので、 その後ダマスクスはムワッヒド朝に併合された。ここにザンギー朝は滅亡した。

北方戦争は順調に推移したが、ダマスクス降伏後間もなくして、帝国を揺るがす大事件が発生する。 2代目皇帝アル・アジーズが、諸侯との狩猟中の落馬事故が原因で不慮の死を遂げたのだ!

アル・アジーズの息子、アル・マンスールが3代目皇帝に即位したが、彼は未だ幼く、 政治が行える状況にはなかった。これを機に、カリフ=スルタン位をめぐる争いが勃発することになる。 サラディンには17人の息子がおり、彼らはアル・マンスールの皇位継承に反対し、我こそが皇帝にふさわしいと、 各地で騒ぎ立てた。この結果、一時イスラム帝国は機能不全の混乱に陥った。

イスラム帝国の混乱を好機とみたのか、ここでペルシア同盟が宣戦布告してくる。 第二次ペルシア戦役の幕開けである。 ここに、西方イスラム世界を統一したアイユーブ朝に対する包囲網が完成した。

西暦1199年の情勢
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危機的状況。このタイミングでセルジューク朝に宣戦されるとは思わなかった。敵主力を自領に引き込んで消耗させたのちに撃破、早期講和を目指すしかない。

ペルシア連合の動員力は優に20万を超え、タバリスタン州はたちまち陥落、 続いてバグダードがセルジューク朝軍10万の包囲下に置かれた。

バグダードをも失えば、イスラム帝国としての威信が傷つき、帝国は瓦解しかねない。 さらに後詰めにはペルシア連合軍7万がアフワーズ州に迫りつつあった。

この混乱の中、頭角を表してきたのがサラディンの弟、サファディンであった。 サファディンは、アル・マンスールの皇帝即位を積極的に支持、自らは摂政に就任し、大戦の指揮をとること を表明した。指揮系統を喪失し、混乱の極みにあった軍部は、これを歓迎する。 サファディンはザンギー騎兵を始めとする帝国軍主力を掌握、政治の実権を握ることに成功する。

しかし、広大な帝国各地では、サラディンの息子たちが自らの権利を主張してはばからず、 帝国統一は未だなったとは言えない状況であった。サファディンには、 自らがサラディンの後継者にふさわしいということを、力によって示す必要があった。

サファディンは軍を再編、北方戦争を同盟軍に任せると、バグダードにて単身、ペルシア連合軍との決戦に打って出た。 バグダードは陥落寸前まで追い詰められていたが、城兵はよく戦い、10万の包囲軍は4万5千にまでその数を減らしていた。

バグダードの戦い
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バグダードの戦いは、12世紀最大の会戦として知られる。両軍合わせて8万5千の兵が一同に会したこの世紀の一戦は、 アイユーブ朝の勝利に終わった。サファディンには、サラディンのアフリカ遠征への従軍経験があり、 当然かの有名な「トレムセンの戦い」にも武将のひとりとして参戦していた。 バグダードの戦いはまさにトレムセンの再現であった。歩兵が主力であったペルシア連合は、 ザンギー騎兵による包囲殲滅にあい、全滅した。

その後もサファディンは帝国軍を率い、中近東を転戦し、各地で勝利をおさめた。

1202年には戦争は終結し、アゼルバイジャンはアイユーブ朝の属国に、 ペルシア連合はアイユーブ朝に賠償金を支払うことで講和が結ばれた。 イスラム帝国の完全勝利である。

第二次ペルシア戦役における戦勝によって、 サファディンは完全に権力を確立した。

彼は戦争終結後、アル・マンスールを廃し、自らカリフ=スルタン位に登る。 イスラム帝国4代目皇帝サファディン、尊称、アル・アーディルの誕生である。 アーディルは「公正なる者」を意味する。 サラディンの息子たちも、こうなってしまえばアル・アーディルに従わざるを得ず、 こうしてアイユーブ朝イスラム帝国は、安定をみた。 以後、アル・アーディルの血統が、1250年にアイユーブ朝が滅亡するそのときまで、 皇帝位を継承していくこととなる。

第二節 アル・アーディル〜公正なる者〜

第二次ペルシア戦役における戦勝によって、アル・アーディルはその権力を確実なものとした。 しかし、アレッポ、ダマスクスはアル・アーディルに対して反抗的な姿勢をみせた。 アレッポ、ダマスクスはもとよりザンギー朝の故地であり、 アイユーブ朝はいわば下克上によってザンギー朝を滅ぼし支配者となった。 それをよしとしない在地勢力も多く、同地は常にカイロからの独立を模索した。

この状況を打開するために、アル・アーディルは、1204年、アレッポ、シリアの名目上の総督として サラディンの血縁者を配しながらも、在地勢力にはほぼ自治を認める寛容な処置をとった。

サラディンの後継者
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前にも述べたように、アイユーブ朝時代には絶えずアレッポ、ダマスクス、モースルに対する独立イベントがあるのでここを積極的に狙うのはやめたほうがいい。マムルーク朝変体後はこういったイベントは発生しない。

アル・アーディルはこの後10年にわたり、内政に尺力する。広大な帝国を統治するためのシステムを構築するのは困難な作業であった。アル・アーディルは、アル・アジーズの死によって瓦解しかけた帝国をまとめあげ、北方・ペルシア戦争に勝利し、帝国の支配体制を確立したことで、アイユーブ朝中興の祖として知られる。1212年には首都カイロに大聖堂(=ゲーム的には美術館)が建立され、国内の安定の象徴となった。

1218年1月、74歳になったアル・アーディルはルーム・セルジューク朝への遠征を決意する。折しもルーム・セルジューク朝は、第四回十字軍によって弱体化したビザンツ帝国から小アジア全域を切り取り、その最大版図を達成していた。これによりビザンツ帝国はニケーアを中心とした都市国家に成り下がり、その後ヴェネチアに併合される。1000年近くにわたり存続した高貴な帝国の、あっけない最期であった。

1218年の情勢
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密かにライバル視していたビザンツ帝国のあっけない最期。つい半世紀前まではバルカン、アナトリアをがっちり抑えていたはずがいつのまにやら。第四回十字軍おそるべし

ともあれ、勝者であるルーム・セルジューク朝も、多年にわたるビザンツ帝国との抗争によりその戦力は疲弊しており、これは、小アジア全域を支配下におさめるまたとない好機であった。また、アゼルバイジャンが治めるシワス州は反乱軍に占拠されており、いつルーム・セルジューク朝に寝返ってもおかしくない状況にあった。アル・アーディルが74歳という高齢を押して出陣を決意したのには、このような背景があった。

帝国軍5万は、同盟国アゼルバイジャン軍とともに小アジアへ進撃、ルーム・セルジューク朝の各都市を包囲下におく。戦争は優勢に進んでいたが、その年の9月に、高齢の体に無理がたたったのか、アル・アーディルは陣没する。帝位は、生前から副帝として共同統治にあたっていた、長男ナースィルッディーンが継承した。5代目皇帝、尊称、アル・カーミルの誕生である。カーミルは「完全なる者」を意味する。

第三節 アル・カーミル〜完全なる者〜

38歳の新帝アル・カーミルの最初の仕事は、父のやり残した戦争を終結することであった。これはさほどの難事ではなく、1225年にはルーム・セルジューク朝は完全に屈服し、帝国の属国同盟国となった。

アル・カーミル。その尊称のとおり、アル・カーミルには全てが与えられていた。アフリカから中近東に至る広大な帝国、血統による支配の正当性。サラディン、アル・アーディルはともに下克上によって権力の座を手に入れた。彼らは支配の正当性に欠け、それを補うために巨大な戦争を必要とした。サラディンにとっては2度に及ぶアフリカ遠征、アル・アーディルにとっては北方・ペルシア戦争がそれである。彼らは武力によって帝国を統治した。まさに覇者と呼ぶにふさわしい。

ではアル・カーミルは。

アル・カーミルは生まれながらの皇帝である。彼には戦争は必要なかった。 アル・カーミルは戦争を嫌い、極力これを避けようとした。叔父や父のように自ら陣頭に立つこともしなかった。 1228年、ドイツ皇帝フリードリヒ2世が第六回十字軍を率いてやってきたときも、アレッポ公の反乱が重なったとはいえ、交渉によって事の解決にあたったほどであった。

このアル・カーミルの戦争嫌いのために、大規模な軍事行動、特に、ペルシアへの遠征は無期限延期とされ、これによってイスラム世界の統合は30年は遅れることになる。しかし、これをして彼を無能であったと断罪することはできない。ヌラディンからアル・アーディルに至るまで、イスラム世界には激しい戦乱が絶えなかったが、アル・カーミルの治世には人々は平和を謳歌することができた。外征の減少により、内政は充実し、アル・カーミルの治世にアイユーブ朝は全盛期を迎えたのである。その内政の充実ぶりを示すエピソードとして、アル・カーミルの治世の晩年に建造が始まった醸造所がある。アンダルシア州とオラニア州に、莫大な金額を投資して建立されたこの施設は後にイスラム帝国の貿易事業に大きなメリットとなった。アル・カーミルには先見の明があり、この資金が捻出できたのも、彼が戦争によって生ずる支出を限りなくゼロにおさえたからであった。

とはいえ、戦争が皆無であったわけではない。 アル・カーミルの治世では、ただ一度だけ戦争があった。先に述べたアレッポ公の反乱である。

1228年に、アレッポ公が在地勢力を抱き込んで、帝国に対して叛旗をひるがえした。これに反対したダマスクス公領は併合され、モースル公、セルジューク朝がこれに加わり、往年のザンギー朝を思わせる一大勢力になった。

1228年の情勢
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シリア地方一帯の反乱により、帝国はその喉元に合口をつきつけられる形となった。戦争嫌いのアル・カーミルもさすがに帝国軍の招集と出動を命じ、5年にわたる戦争の末、反乱軍は一掃された。アレッポ公領の大半は帝国が、モースル、セルジューク朝の旧領は、それぞれキレナイカ、ルーム・セルジューク朝が接収した。

1233年の情勢
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こうしてザンギー朝の故地シリア地方一帯もイスラム帝国の傘下に入った。また、アル・カーミルの治世の晩年には、ムワッヒド朝が外交併合され、広大な所領がアイユーブ朝の直轄下におかれることとなった。

西暦1238年のイスラム世界(アル・カーミル没時)
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エピローグ 

およそ1世紀にわたる興亡の末、サラディンが創始したアイユーブ朝はムワッヒド朝、ファーティマ朝、アッバース朝、セルジューク朝トルコといった4大王朝の全てを滅ぼし、各地に割拠していた勢力を駆逐した。残すはアラブ諸侯、ペルシア諸侯。これら地域の征服によって往年のアッバース朝時代の栄光を、帝国は取り戻すことになるだろう。しかし、その天命はアイユーブ朝には与えられていなかった。

1238年3月6日、アイユーブ朝の全盛期を現出した偉大な皇帝が身罷ると、その子、サファディンが即位する。7代目皇帝、尊称アル=アーディル2世。

折しもウクライナ一帯が、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国に征服され、イスラム帝国と国境を接するようになった。イスラム帝国はここに、最大・最強のライバルを迎えようとしている。

モンゴル帝国の馬蹄音が鳴り響く
モンゴル.jpg
クマン全域がモンゴルに占領された。ヒストリカル・リーダー、ジュチにも注目。同地にはジュチ・ウルスが建国される

賢帝の時代は過ぎ去り、アイユーブ朝の崩壊が始まろうとしていた・・。



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Last-modified: 2012-06-01 (金) 00:32:06 (1937d)