オマーン、大洋の帝国(オマーン)/15世紀/16世紀前期/16世紀後期/17世紀前期/17世紀中期 

地中海貿易戦争

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スペイン海軍に蹴散らされるバルバリア海賊

ヨーロッパの復活

1670年代、ヨーロッパは『ペストと戦乱の17世紀』を克服しつつあった。
ヴェネツィア、ジェノヴァ、セビーリャ、リスボン、パリ、ロンドン、
これら主要港には新大陸へ向かう移民団や金銀、砂糖に煙草の荷があふれている。
だが、その取引の1/4はオマーン資金によるものだった。

「新大陸の富は我々が血と汗であがなったものだ!
異教徒の金儲けのタネにされてたまるか!」

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ヨーロッパ諸国の禁輸によって新大陸とアフリカの富が逃げ去った。
いくつかの貿易摩擦は戦争に発展した。

現地商人の反発は強く、
各国政府はオマーンに対する貿易禁止/投資禁止措置を迫られた。
1656年からいちはやく長期間の禁輸を実施しつづけているスペインに続き、
1672年には中欧・バルカン・黒海をコントロールするヴェネツィアが禁輸を布告。

1680年代に入ってこの動きは加速し、
アフリカの奴隷産地とブラジルを支配するポルトガル、
カナダとアパラチア、ミシシッピ流域を抑えたフランスが加わる。
一大ブロックと化した禁輸圏は西半球をおおう勢いで広がっていく……。

ヴェネツィアとの戦い

アレクサンドリアは特異な港である。
インド洋との連絡がない飛び地であるため、陸兵の徴募はすべて現地で行われ、
オマーン海外領では珍しい師団級常備軍(騎兵17000)を有している。

だがアレクサンドリアの華は、やはり東地中海交易の中心としての役割と
それを守るオマーン地中海艦隊(ガレオン30隻)であろう。
ここにはオマーン唯一のヨーロッパ式造船所(ガレオン年産22隻)がある。
仮に地中海艦隊が全滅したとしても、1年半で艦隊再建できる造船力だ。

ただ1州の飛び地であるにも関わらずそのプレゼンスは大きい。
オマーンの貿易圧に悩む地中海諸国にとって、
アレクサンドリアはじくじく傷む小さな傷口にも似た存在であった。
だが、ヨーロッパ諸国の禁輸の影響を正面からこうむったのも
やはりアレクサンドリアだったのである。

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フランス海軍制作のアレクサンドリア港および市街図。
オマーン海軍施設の多くは新港Le Nouveau Portと
旧港Le Vieux Portの間の砂州上にある。
要塞化された『大灯台』Le Grand Feraillon(Pharillon)跡に注目。

1670年代を通じて、ヴェネツィアは厳重にオマーン商船を監視してきた。
クレタ・キプロス方面に艦隊を通航させるだけでなく、
定期的にアレクサンドリア港外にもガレー船を送って威圧してくる。

「ヴェネツィア人め……貴様らの時代は終わったことを知れ!」

地中海艦隊本部のケセイマ提督は断固としてこれに対抗。
キプロスやアドリア海に偵察艦隊を派遣するなど、
両国関係はもはや冷戦と呼べる段階にまで発展していた。

「地中海艦隊の独走は許さない。ヨーロッパ列国とのこれ以上の摩擦は避けよ」

事態の鎮静化をはかるマスカットはアレクサンドリアに自重を命じていたのだが……。

1680年12月、アレクサンドリア港外。
ヴェネツィアのガレー船が誤って第三国商船に衝突、これを沈没させた。
地中海艦隊本部は「通商保護」を名目として独断で第二戦隊を出動させる。
同月22日、両国艦隊はアレクサンドリア沖0.5レグアの地点で激突した。

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第一次ヴェネツィア戦争(1680-1681)。
交差した剣は海戦、旗は海戦に勝利した国を表している。
ガレオン中心のオマーン艦隊は2敗を喫したにもかかわらず
甚大な損害を敵艦隊に与え、「ガレー時代の終焉」を地中海諸国に印象づけた。

折からの無風と地形の不利。
そしてこれが創隊以来の初戦闘となる、地中海艦隊の未熟練。
ケセイマ提督の第二戦隊はヴェネツィア艦隊のいいようにこづき回され、
次々と横っ腹に衝角を突き立てられ、敵軍の切り込みを許した。

だが一方でガレオンの卓越した火力によって多数のガレー船が沈没している。
ヴェネツィア艦隊は勝利を確定するために追撃することなく、
そそくさと西方海上へと去っていった。

「全艦隊をアドリア海へ集めている。東地中海はからっぽです」

ヴェネツィア艦隊をキプロスから追いかけてきた第一戦隊(15隻)はそう報告した。

「奴らが引きこもりたいならそうさせておけ。
こちらからアドリア海に乗りこんでやる」

ケセイマ提督は何がなんでも海戦で勝利を重ね、
ヴェネツィアを禁輸解除へと追い込む方針である。
再編成された地中海艦隊は、明けた1681年2月26日ヴェネツィアへ向けて出航した。

意外にもまったく敵影のないアドリア海を通過して、
5月18日にはヴェネツィア・ラグーンをアドリア海と分かつリド水門へ到達。
砂州ごしにヴェネツィア市街への砲撃を試みる。

だが、海洋国ヴェネツィアは最後の意地を見せた。
ついに本国艦隊(ガレー28隻)が出撃し、
ヴェネツィア砲撃を続けるオマーン艦隊を駆逐せんとしたのである。
地中海艦隊は敗勢を装い、風浪の強い外海へこれをたくみに誘導。
ラグーサ沖で多数の敵ガレーを沈め、圧倒的な勝利を得た。

6月29日、ヴェネツィアはアレクサンドリアに禁輸の解除を通告してきた。
戦果ではまさりながらも、ガレーの大量喪失に耐えきれなかったのだろう。

「所期の目的は達成されたはずだ。停戦せよ!」

さすがにこの時点でマスカットが介入してきた。
50万ディーナールの賠償和平はケセイマ提督はじめ艦隊の全員を悔しがらせたが、
1681年8月25日休戦条約が発効し、
オマーン地中海艦隊の初めての実戦は終わりを告げた。

エピソード:ケセイマ提督の回想

「溶けるように敵ガレーが沈んでいくのを目の当たりにしました。
我が海軍も強くなったものだ!」
/
ラグーサ海戦後、ひとりの艦長が感きわまったように発したこの言葉。
ケセイマ提督はこれに強い違和感を感じたと伝えられている。
/
かつてのヴェネツィア、あのオスマン100隻艦隊と対峙した「アドリア海の女王」は、
首都への艦砲射撃を敵に許すような国ではなかった。
そのヴェネツィアは今はハプスブルグ・中欧連合の走狗と化し、
ロンバルディア平原の覇権をめぐってフランスと陸戦を繰り広げている。
有名なアルセナーレ地区の造船所は旧式のまま、海軍工廠ひとつなく、
アドリア海を侵されても本国艦隊は知らん顔でラグーナに停泊し続ける。
/
「オマーンが強力になったのではなく、ヴェネツィアが衰えたのだ……」
/
陸にあがった海洋国の姿はみじめである。
オマーンは決してヴェネツィアのようになってはいけない、
そう提督は肝に銘じたという。

フランスとの戦い

1682年3月、ヴェネツィアに続いてフランスが対オマーン禁輸圏に加わった。

アレクサンドリアの対応は早い。
翌4月には宣戦、5月にはスペイン領サルディニア、カリャリ沖で
地中海艦隊第一戦隊がフランス艦隊と砲火を交えた。

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オマーン・フランス戦争(1682-1683)。
フランスとの戦いはティレニア海とリグリア湾が主な戦場になった。
アレクサンドリアから距離があるため、
地中海艦隊はフランスの南下圧に脅えるナポリを基地として利用した。

戦争中にフランスは禁輸解除と禁輸をそれぞれ2回布告してオマーンをゆさぶるが、
1683年12月6日、最終的な禁輸解除を行い、
19万ディーナールのオマーン側賠償で停戦合意に至った。
マスカットは今回もアレクサンドリアの独断専行を追認せざるを得なかった。

両国いずれも決定的な勝利はなく、4勝4敗の同点。
これは敵味方の基地港が近接しているため、
敗北した艦隊がすぐ港に逃げ込んでしまうという事態が影響している。
遭遇戦では決着が着かず、連続した追撃戦だけが敵艦隊を撃滅できるという
海戦の基本を思い知らされる戦争となった。

なおフランス戦中の1682年7月、自国に対する脅威を感じたのか、
ポルトガルがオマーンに対する禁輸を解除している。

スペインとの戦い

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オマーン・スペイン戦争(1683-1684)、地中海戦区。
フランス戦と同様に決着が着かず、戦果は5勝4敗と拮抗した。

アレクサンドリアの暴走は止まらない。
27年に渡る長期禁輸を実施するスペインについに矛先が向けられた。

「海は万人のもの、貿易は自由のはずだ!」

海洋強国だけが発しうるこの常套句をひっさげて、
1683年、ケセイマ提督の地中海艦隊はオスマン属国アルジェーに入港した。
金銀財宝をパシャの館に送り届け、変わらぬ友好をアピールする。

「スペイン人に対する共同戦線を張る必要がありますな!」

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アルジェー領トリポリからひと稼ぎしに来たバルバリア海賊船。
(メインマスト頂上の赤白緑トリポリ旗に注目)
地中海の入り口を扼するアルジェーはヨーロッパ商船の鬼門であった。

パシャは全バルバリア海岸に布告を出し、スペイン沿岸での『商業』を奨励。
グラナダ、ムルシア、バレンシア、カタロニアの海岸はバルバリア船でいっぱいになった。
だがデ=ロイテル艦隊を屠ったジャワ海と違い、西地中海は中立国船舶の往来が激しい。
ほとんどのバルバリア船は目立った戦果をあげることなく敗退してしまった。

一方、地中海艦隊とスペイン艦隊はバレアレス諸島を軸にして
バルセロナ〜アルジェー間で激しくもみ合いを続けたが決着がつかない。
この戦争の帰趨を決したのは、驚くべきことにインド洋の大洋艦隊であった。

事のおこりは1674年、新兵器『携帯用望遠鏡』の導入にさかのぼる。

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17世紀末期、ジェノヴァで製作された携帯用望遠鏡。
子牛革(vellum)製の筒、角製の部品、ガラスレンズで構成されている。
National Maritime Museum, London

当時、望遠鏡は重くてかさばるものばかり。
列国海軍はマスト上の見張り員が使えるような望遠鏡の開発を急いだ。
革筒にレンズを嵌めたこの新兵器はオマーン船に広大な視界をもたらしたのである。

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左:1660年代、オランダ戦終了時の視界
右:1680年代、左図と同一の艦隊配置

これまで運だのみの遭遇戦をおこなっていたオマーンにとって、
大洋での策敵・計画的追撃が可能となったことは海軍史上の革命だった。
せっかく大洋で有利に戦う力を手に入れたのだ、使わなくてどうする。

「南大西洋からケセイマ提督の戦いを援護しよう!」

大洋艦隊の若手艦長たちはそう上申を繰り返した。

ついにマスカットが南大西洋への大洋艦隊出撃を命じた時、
血気さかんなゴアの海軍閥に押し切られたのだと一般には受けとられた。
だが、マスカットには独自の判断があった。

「『砲艦外交』は貿易禁止を打破する手段として有効である」

禁輸国に海戦を挑み、賠償金などの有利な条件で講和する。
有利な条件で講和した場合、停戦当日から5年間敗者は勝者を禁輸できない。

ケセイマ提督のヴェネツィア戦、フランス戦を研究したマスカットは、
自由貿易を強制するために海軍力を使うことを学んだのである。

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オマーン・スペイン戦争(1683-1684)、南大西洋戦区。
前年に急遽整備されたセントヘレナ泊地が重要な役割を演じている。
海軍陸戦隊はスペインのラプラタ植民地を占領したが、戦後返還された。

インド洋を空同然にしてオマーン大洋艦隊は南大西洋を暴れ回った。
戦果は積み重なり、ラプラタ植民地の占領でオマーンの戦勝は決定的になった。
1684年5月、アレクサンドリアで停戦交渉が始まった。

「ラプラタ! ラプラタ! オマーンに領土を!」

戦勝に沸き、植民地の割譲を求める声がオマーン全土にこだまする。
しかしケセイマ提督はそれを完全に黙殺。
スペイン側からのラプラタ割譲提案さえ蹴って、
320万ディーナールの賠償金と休戦5年間の自由貿易のみを条件に
停戦合意したのである。

のちにケセイマ提督はこの時のことを振り返って、

「あんな田舎、どうして欲しがるのかね。牛の革しか採れんようなとこらしいぞ」

と不思議がっていたという。

再びヴェネツィアとの戦い

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第二次ヴェネツィア戦争(1691-1692)

経過
三度目の禁輸にともなって、オマーンはヴェネツィアに再宣戦した。
緒戦、キプロス西方海上の遭遇戦で敗北。
その後コルフ沖で本国へ帰投する敵艦隊(ガレー8隻)を捕捉し、これを全滅させた。
この時点でヴェネツィアは禁輸を解除している。

さらなる戦果を求めて地中海艦隊はアドリア海に侵入するが、
1692年4月時点でヴェネツィアの保有艦数がゼロであることが確認された。
これ以上の戦果の獲得を断念したアレクサンドリアは
15万ディーナールのオマーン側賠償で停戦に合意した。

分析
前々年度にオスマン海軍が保有艦数を1/3減らしていることから判断して、
オスマン帝国との戦争でヴェネツィア海上戦力は致命的な被害を受け、
オマーンとの第二次戦争でついに全滅したものと考えられる。

また、ヴェネツィア艦隊が滞留するクレタ海域の攪乱を目的として
アレクサンドリアは私掠船を4度に渡って出撃させた。
しかしここがオスマン帝国海軍のシーレーンに当たっていたため、
オスマン、ヴェネツィア両国の艦船によって私掠船は早期に駆逐されてしまった。
スペイン戦での経験も踏まえると、
地中海交通要部での私掠船戦術は困難であることがわかる。

貿易のじかん

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先生、貿易がつまんないです

「なんか地味でつまんないんですけど」

生意気盛りの生徒たちが「つまんない!つまんない!」と合唱する。

「ほら、戦争とか外交とかって派手に地図変わるじゃないですか。
でも貿易って……なんかちまちまちまちま……イーッてなりそう」

ここはマスカットのマドラサ、スルタン・マフズーム学院。
毎週月曜日にひらかれる「こども貿易教室」の風景である。
引退した貿易商や海軍軍人が、商人の卵たちを育てているのだが……

「地味? ちまちま? 何を言っとるかこのクソガキどもは。
この図を見よ」

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1693年。
(左から:前年度数値、今年度12月時点の数値、人頭税を除く全収入に対する%)
商業技術46%、実質貿易効率72%

「年間がっぽり3000万ディーナール!
その3/4を貿易とCoT関税だけで稼いでおる。豪勢なもんじゃ。
1661年のと比べて気付いたことを言うてみよ。ほれ、一人ひとつ」

「……あいかわらず税収がしょぼいですね。179万ディーナールて」
「はい先生! 殖民のおかげで商品生産が10%近くに増えています」
「つうかアンダルシアCoTの取引高やばくね?」
「先生、日本が素直に鎖国してます」
「アストラハン、ロシア人の占領後めっちゃでかくなってる」
「それでイスファハーン交易圏が南に動いて、マスカットが圧し潰されてますね」
「ザンジバル、なにこれ? 内陸アフリカに交易圏が伸びてる?」

「ハサン、いいところに気が付いたな。
みんなに質問じゃ。マダガスカルとモーリシャスの特産物は?」

(声をそろえて)「さとうー!」

「砂糖を作るのに必要なのは?」

(声をそろえて)「どれいー!」

「三大奴隷貿易港を言うてみなさい、ジャーファル」

「えっと、イヴォリア、ルアンダ、ザンジバルです」

「よろしい! 従来、オマーン領ザンジバルはインド洋向けの奴隷供給港じゃった。
しかし交易地のひしめくインド洋のこと、
ザンジバルは押しつぶされたバネのように成長力を押さえ込んでおった。
それでも地道にマダガスカルとモーリシャスに殖民を続け、
奴隷需要を高めてザンジバルの取引高を伸ばしていったんじゃ。

そしてマスカットがイスファハーンに食われて弱ったとき、
ザンジバルは一気にエチオピアへ食いこんで爆発的に取引高を上げたんじゃな。
おかげで奴隷産地のコンゴ王国がザンジバル商圏に入り、
ポルトガル領ブラジル向けの奴隷輸出も手がけるようになった。
ロシアがアストラハンを占領した影響がこんなところにまで及んでいるんじゃ」

「すげー!」

「このように貿易というのはちまちまどころか、
国際情勢とプレイ次第で商圏の形すら変わってしまう
大変ダイナミックなものなんじゃよ」

CoTを狙え

「でも先生、15-16世紀はあんまやることなくないですか?」

「いやいや、この表を見なさい」

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15~17世紀の貿易関連出入比較
支出(茶)は収入(白、緑)の縮尺に合わせて縦方向に1.44倍してある。

「確かに15-16世紀は貿易しててもつまらん。
しかし安定して利益の上がっておる白いグラフがあるじゃろ。ヤスミン、これは?」

「CoTから納められる関税です、先生」

「そう、CoTひとつあたり50~60万ディーナールになるな。 オマーンは最初からマスカットとザンジバルを持つから100~120万ディーナール。 これにカッチを加えて、15~16世紀を通じて年間150万ディーナール強を確保しておる」

「あ、すご……当時の貿易収入なんか目じゃないです」

「とにかく『CoTを狙え』ということじゃ。
正直、初期の貿易国家プレイは関税頼りなもんでな……あればあるほど良い。
重要なのは、CoTの大小に関わらず関税は等しいこと。
景気が良かろうが悪かろうが、
きっちり50万~60万ディーナール納めてくれる鉄板収入源なのじゃ」

「あの、でも先生、16世紀おわりごろの白線のジグザグはなんですか?」

「歴史を習っておらんのか?
これはあのつらくて悲しい『インド洋戦争』期じゃよ。
オマーンのCoTを敵や反乱軍が占領したので関税がろくに入らず、
食べ物が買えずにみんなひもじい思いをしたんじゃ。
ああ、あやまちは繰り返しませぬから!」

「関税頼りの初期貿易国家はCoTを占領されたら終わり、と」

「……何事にも弱点はある。
言い遅れたが、CoTひとつあたり商人団+1というボーナスもあるんじゃぞ。
オマーンなんざ、これで年間+11.4という数字を叩き出しておる。
みんなもCoTをいっぱい集めて立派な貿易国家を作ってくれたまえ。
CoTを狙え! はい復唱!」

(声をそろえて)「CoTを狙え!」

派遣1回、儲けは5年

「では17世紀後半の緑線のジグザグは? 誰か解る者がおるか?」

「ヨーロッパ諸国の禁輸の影響ですね」

「アーイシャ、その通りじゃ。貿易禁止しおった国は?」

「スペイン、フランス、ヴェネツィア、それから……ポルトガルでしたっけ?」

「よろしい。
だいたいオマーンの持ち枠が3/20枠から5/20枠あたりになると危なかった。
向こうにしたらアラブ成金に国内市場荒らされてるわけじゃから、もう必死。
スペインなんざ延々28年間に渡って禁輸を維持したんじゃから立派なもんじゃ」

「……通商協定結べばいいじゃないですか」

「国是としてフランク人とは手を組まないことになっておる。
それにスペインはよそと通商協定を結ばないことで有名なんじゃ」

「じゃどうすんですか」

「艦隊を派遣して、CoTを開放するよう脅すんじゃ。
貿易禁止したのは向こうじゃから、大義名分はこちらにある」

「そしたら禁輸を解除してくれるんですか?」

「経験的な話になるが、戦争しなくても2~3年で勝手に解除してくれることが多い。
しかし勝者が有利な条件(賠償金など)で講和を結んだ場合、
敗者は停戦期間5年のあいだ勝者を貿易禁止できないという決まりがあるんじゃ。
数ヶ月で有利な講和ができれば、その時点で禁輸解除じゃからの」

「でもスペインはなかなか講和に応じなかったですよね」

「ああ、スペ公はしぶとかった。
要りもせん田舎パンパしつこく押しつけてきよってから……。
まあ講和後、アンダルシアCoTをさんざん報復モノポリーされて連中涙目じゃったがの。
215/829とか」

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スペイン人涙目

「ああ、そうか。ということは計画的に
『貿易禁止→艦隊派遣→海戦勝利→有利な条件で講和→
(CoTが潰れない程度に)5年間モノポリー三昧→はじめにもどる』
を続けたら大もうけですね」

「怖ろしい子……(白目) そこまでやると立派な海賊国家じゃの……。

ま、たかが禁輸を解除させるためだけに陸戦したり、
包囲戦をしたりするのはわずらわしいもの。
地理的条件、技術差にもよるが、艦隊派遣による解決はお手軽でお勧めじゃ。
『派遣1回、儲けは5年』、はい復唱!」

(声をそろえて)「派遣1回、儲けは5年!」

「今日はこれでおしまい。気をつけて帰るんじゃよ」

インド皇帝への道

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宣戦布告後、デリーの王城を退去するオマーン使節団。
オマーン領インドでは多くのヒンドゥー教徒が官僚や軍人として活躍していた。

ヤールーバ家のサイーフ

オマーンの王にとって『インド』という言葉は
しばしば麻薬のような働きを及ぼすらしい。

一衣帯水、あの豊かなヒンドゥスターンが
マスカットの目の前に横たわっているのだ。
沿岸をかじるだけでどうして満足できるものか。
ヤールーバ家のサイーフ王子もまた、そう考えるひとりであった。

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サイーフの父はイマーム・スルターン1世、
王朝開祖ナーシル・アルヤールービーの従兄弟にあたる。
1668年父が身まかったあと、長兄アブル=アラブが全オマーンのイマーム位を継承。
アブル=アラブは弟サイーフをプネー総督(マハラーシュトラ)として重用し、
サイーフ王子もよく兄の期待に応えた。
だが、秘かにサイーフ王子は兄の政治に違和感を感じていた。

「兄上は甘い。俺ならインドに打って出る」

大陸領土を軽視し、制海権と自由貿易にこだわるマスカットの政策。
これに飽き足らなくなってきたインド人官僚はサイーフを支持した。

「ヒンドゥスターンは本来税収も多く、多くの兵を養える土地。
デカンの綿とガンジスの米があれば殿下の地盤はもっと強化できます。
首都が海の向こうのマスカットであること、領土がばらばらであること、
これがオマーン領インドの税収を低くし、殿下の手足を縛っておるのです」

「さよう。我々は待ち望んでおります。
ゆくゆくはマスカットから自立し、
殿下がアウラングゼーブにかわるインド皇帝として……」

「みなまで言うな」

「しかし……!」

「兄上はああ見えて敏なお方。俺がインドで勝手できぬよう、
ゴアの海軍府やマラータ諸侯を抱き込んで監視させている。
俺は粛々とオマーン領インドを統治するしかないのだ」

だが、亜大陸の情勢は刻々と変わりつつあった。

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アウラングゼーブ・アーラムギル1世(1618-1707)
英明な君主であり、純粋なスンニー信仰の持ち主であった。
彼の強引な外征と非寛容政策によってムガール帝国が衰退したという説と、
すでに衰弱しつつあった帝国を徹底したシャリーア(イスラーム法)支配によって
引き締め、延命させたという説がある。

1663年、アウラングゼーブ帝は属国アラカンを併合し、
翌年にはオリッサの併合を試みた。
一方、南インドのヒンドゥー諸国も彼の強迫に屈し、スンニー派に改宗。
ムガール帝国はいつでもデカンに手を突っ込めるようになった。

勢いづいたアウラングゼーブ帝は1665年2月、
ヒンドゥー最後の砦であるラージプート、ベンガルにスンニーへの改宗を要求。
これを拒否した両国への懲罰戦争を開始する。

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拡大するムガール帝国(1669年)。
アフガニスタン、バルチスタン、ウズベク汗国を臣下に持つ。
同盟国はオリッサ、雲南、清。
/
ヒンドゥー同盟(ラージプート、ベンガル)は
1650年代にオマーンの資金援助を受けて中規模要塞を構築し、
ムガール軍の数度の侵攻に耐え続けている。

さらに1669年4月、想像を絶する苛酷さの『偶像崇拝禁止令』が発布される。
寺院や神像の破壊が相次ぎ、怒り狂った民衆が各地で蜂起。
まさに帝国は騒乱状態となった。
インドを切り取る好機である。

「北伐の時来たる! 諸君の同胞を救え!」

サイーフ王子はヒンドゥー教徒の多いマラータ諸侯に檄を飛ばした。
本国への工作も忘れてはいない。

「アウラングゼーブの目標は偶像教徒だけではない。
シーア、イバード、あらゆる『異端イスラーム』の殲滅だ。
いま、オマーンはインド内陸に強く介入する必要がある!」

マスカットは悩んだ。
ゴアの海軍府は陸にあがることに強い拒否感を持っている。
それに臣下のマラータ諸侯は反ムガールの一点でまとまっているのであって、
インドの混乱につけこんだ領土拡大は彼らの信用を削ぐことにもなりかねない。
マスカットは考慮を重ねた末に、

「オマーン領を拡張しない」

この一項を条件として、サイーフ王子にインドの全権を委ねたのである。
知らせを受けとった王子は口を歪めて笑った。

「やはり兄上は甘い……。そんなもの、どうにでもなる」

はたしてサイーフの目論見は実現するのか。
ヤールーバ朝インド帝国への遠い道のりが、いま始まった。

インド炎上

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マハラーシュトラ、プネー城の一室。
もう暗いというのにサイーフ王子は筆先をインクに浸し、書き物をしている。
机に広げられているのは地図だ。
アフガニスタンやラージャスタン、ガンジス流域にいくつもの矢印が書き込まれてゆく。

「アフガン、ラージプート、マールワ、オリッサ。
これら4諸侯をアウラングゼーブから切り離し、わが家臣とする。
そして彼らを使って中原Madhya Pradeshを完全にひっくり返す。
30年後、ムガール皇帝に残されるのはデリーの周囲5レグアだけになるだろう」

蝋燭の炎がゆらめき、サイーフ王子の横顔を照らし出した。

「まずはアウラングゼーブの長い腕をへし折らねば……」

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第一回北伐(1669-1672)、東部戦区。
康煕帝率いる八旗軍がベンガル遠征を敢行している。

1669年11月12日、オマーン領インドはムガール帝国に宣戦した。
ムガール連合軍がヒンドゥー国ベンガルを包囲している状況での参戦である。

オリッサ軍主力がグジャラート方面へ転進したのを見計らって、
オマーン軍がカーンデシュとペルシア領パラキメディから侵攻した。
ベンガル湾では数度の海戦が行われ、オマーンが制海権を握っている。

ガンジス河口の沼地州ハウラーでは、
オリッサとの通行協定を利用した「条約下砲兵上陸戦」が実験的に行われた。
砲兵は移動に時間がかかり、敵艦隊の攻撃により上陸作戦を妨害されることも多い。
これを敵の通行許可港に艦隊ごと突入させ、迅速に敵地へ送りこもうというもの。
砲90門を擁するボンベイ砲兵連隊がわずか2日で展開を終え、実験は成功した。

そして1671年3月、オリッサはすべての領土を制圧された。

「アウラングゼーブと手を切ってもらおう。改宗だ」

オリッサはムガール同盟にとどまったままシーア派に改宗した。
謹厳なアウラングゼーブはオリッサ王の裏切りに激怒したが、
同盟国ゆえに攻めることも出来ず、この後の両国関係は悪化の一路をたどる。

1675年2月にはオリッサ領通行許可をムガールが返上、
同年9月には対イェーメン戦争の是非をめぐってオリッサが同盟から離脱した。
『ムガールの長い腕』として各地へ大部隊を派遣してきたオリッサは
こうして無力化されたのである。

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第一回北伐(1669-1672)、西部戦区。
ムガール軍がヒンドゥー国ラージプートを包囲している状況で参戦。

開戦と同時にムガール連合軍が国境を破り、
グジャラートとマハラーシュトラを蹂躙した。

清にカッチ交易地を占領されたオマーンは
大洋艦隊第一戦隊(15隻)を南シナ海に派遣して本格的な対清戦争に備えた。
しかし翌月には賠償による和平申し出があり、オマーンはこれを受諾。
36万ディーナールという破格の安値でカッチ交易地は返還された。

オマーンは連合軍の背後を衝いてデリーへ北上。
属国として独立させるためムガール領マールワの割譲を狙ったが、
1671年3月、54万ディーナールのオマーン側賠償で休戦に合意した。

「次はデカンだ」

北伐を終えたサイーフ王子の目は南に向いた。
デカンにはいつムガールの同盟国、属国になるかわからない二つのスンニー国がある。

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デカン戦役(1675-1677, 1677-1678, 1683/8-12)後の情勢。
ヴィジャヤナガルから得たマンガロール州は翌年マイソールへ割譲された。
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ヴィジャヤナガルとマイソールの扱いが異なるのは一見不可解に見える。
だが最近の研究では、サイーフ1世はマイソールを将来の同盟国と考える一方、
後進国ヴィジャヤナガルはマイソールの餌として放置したことが解ってきた。
ヴィジャヤナガルから西海岸のマンガロールを奪ったのも、
有事の際にマイソール軍がスムーズに北進できる回廊作りのためだったという。

1675年から断続的に続いたデカン戦役の結果、
マイソールはシーア派に改宗し、
ヴィジャヤナガルはスンニー派のままオマーンの藩王国になった。
南インドのヒンドゥー国であった両国はこうして別の道を歩むことになる。

さらに、サイーフの軍隊はインド西北部の山と砂漠にまで侵攻した。

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アフガン戦争(1677-1681)、ラージプート戦争(1677-1678)
アフガンの山々は34万人もの若いインド兵の命を吸いこんだ。

「なぜマラータ族の息子たちがアフガンで死ななければいけないのか!」
「この戦争は失敗だ。やるべきではなかった」

民衆の抵抗と厳しい風土のせいで思うように作戦が進まない。
サイーフ王子は断固として派兵を継続したが、
最終的にはアフガニスタン征服を断念せざるを得なかった。

一方、ラージャスタンの征服は順調に進み、
誇り高きラージプートはオマーン領インドに属するヒンドゥー藩王国となった。

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17世紀終わり頃のサファヴィー朝ペルシア。
アフガン戦争の真の目的はムガール包囲網の形成ではなく
サファヴィー朝への牽制であったとする研究者もいる。
サファヴィー朝はカザフステップやアフガニスタンへ盛んに進出しており、
オマーンはその大国化を危惧していた。

包囲網いまだ成らず

1678年、イマーム・アブル=アラブが身まかった。
彼には子がなかったため、
弟のサイーフ王子がヤールーバ朝第四代イマームに推戴される。

サイーフの即位式はマハラーシュトラの首都プネーで行われた。
海軍高官やマスカットの使節も参列したが、
彼らは敵意に満ちた目で新しいイマームを睨んでいた。

「サイーフを厳重に監視しろ。
『自国領を拡張しない』という約束を破るそぶりが見えたら、
奴をすぐに引きずり下ろすんだ」

こんな状況では自国領拡張どころか戦争もできない。
自然とサイーフの初期の治世は外交活動が中心になった。

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諸侯とともに鷹狩りを楽しむイマーム・サイーフ1世

彼はいとこ伯父のナーシルに似て外交好きだったと言われている。
属国や友好国の王をプネー宮廷に呼んでは親しく交わり、
要塞費だ募兵費だといっては何百万ディーナールもの贈り物を彼らに与えた。
相手がヒンドゥー教徒だろうがムスリムだろうが気にしない。
ラージプート王インドラ・シンはサイーフの気前の良さに

「アウラングゼーブは鉄の鎖で縛る。サイーフは銀の鎖で縛る」

などと揶揄したほどである。
ムガールがかつての属国オリッサに牙を剥いたとき、
オリッサ王がサイーフに救援を乞うたのは当然のことだと言えるかもしれない。

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第二回北伐(1684-1685)
アウラングゼーブ帝が封鎖突破にこだわった理由として、
帝国が毎年スラート港からメッカ外港ジェッダに派遣している
巡礼船団の航路の安全を計る意図があったのではないかという説がある。

オマーンの参戦にともなって主戦場はグジャラートへ移った。
スラート港のムガール艦隊は実に24回にわたる封鎖突破を試みたが、
いずれも敗退。これらの海戦は戦争の帰趨に大きく影響した。

内陸では、オマーン軍はマールワ、デリーを経由してアウドにまで侵攻。
ムガール帝国の募兵地であるガンジス流域を荒らし回った。
ムガール軍はかろうじてカッチ交易地を占領したが、
要塞化されたマハラーシュトラ主要部に踏みこむことはできなかった。

1685年7月、オリッサはムガール帝国の和平申し出を受諾。
その条件はマールワ(オマーン占領)とバスタル(オリッサ占領)の割譲、
78万ディーナールの賠償金支払いであった。

「マールワの独立を許す。共にムガールと戦ってほしい」

サイーフはラージプート族の国マールワをヒンドゥー藩王国として独立させた。
その武勇と智力をもって帝国に奉仕してきた諸侯のひとつが
今またプネー宮廷の旗のもとに参集したのである。

アウラングゼーブの帝国がしだいに蚕食されていく。
しかし、サイーフ一代で事を運ぶにはインドはあまりにも広大であった……。

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未完のアウラングゼーブ包囲網(1693)

「こんなはずではなかった!」

サイーフは苛立ちを隠せない。
マールワの獲得が遅れた上、
同盟の関係で属国ラージプートが第二回北伐に参加できなかった。
しかもアフガニスタンの征服/改宗に失敗したため、
ムガールの故地である西部地域は無傷のままで残ってしまっている。

「『デリーの周囲5レグア』どころか、
アウラングゼーブはインダス・ガンジス流域をしっかり抑えている。
奴も70を過ぎて衰えたとはいえ、まだまだ元気だと聞く。
俺は目の黒いうちにどこまでやれるのだろうか」

それにゴアの海軍閥や本国商人の圧力がある。
彼らはサイーフのインド中心主義に好感を持っていない。
サイーフが死ねば、大きな揺り戻しが来るだろう。

「俺も一度はインド皇帝を夢見たのだがな」

息子のスルターンの頭を撫でながらサイーフは溜め息をついた。
スルターンは同じ歳の子供と比べても言動が幼く、危うい行動を取りがちだ。
ムガール帝国、それにゴアやマスカットの魑魅魍魎たちと向き合うには
スルターンの横顔はあまりに頼りなさげに見えた。

「せめてこの子がしっかり育ってくれれば……」


18世紀前期

オマーン、大洋の帝国(オマーン)


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Last-modified: 2007-10-27 (土) 13:55:50