偉大なる先祖の跡を追い・・・(前編)

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 1697年2月の世界地図

 先の戦争から30年程はどの国にも大きな動きもなく過ぎてゆき、金帳汗国はもっぱら東方への植民に月日を費やしてました。
 他の国も植民活動を積極的に行っているようで、バニラでは珍しくフランスが史実通りボンディシェリを中心にインドで勢力を伸ばしてます。
 驚いたのはソマリアでオマーンとポーランド(!)が鎬を削っていること・・・ポーランドが植民したの初めて見たよ、ほんとトンデモ展開にも程があるよねこのGC。

 ポーランド交易所を作るの図

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シーア派との戦い

 この30年でムガールから割譲させた領土でのナショナリズムが消え、陸軍技術はフランス、オーストリア(22)に次ぐレベルまで上がり(19)、
 質量共に充実した軍を整えた金帳汗国の次の目標はペルシャ征服です。
 宗派間の対立で永久大義名分があるのでこちらの都合に応じて戦端を開くことができますし、GC以前の歴史も鑑みてポーランドよりペルシャ進出の方がいかにもって感じがしますしね。

 まあ、欧州でフランスとオーストリアがそれぞれ大同盟を組み始めたのでうかつに手を出せないという事情もありますが・・・。

 何はともあれ、1698年8月15日に金帳汗国はペルシアに宣戦布告して最初のペルシャ戦争が始まりました。
 金帳汗国の側には同じスンニ派のデリーとチャガタイが、ペルシア側にはやはりシーア派のオマーンとマムルーク朝が参戦し
 文字通りイスラム世界の東西対決となりました。各地で激戦が繰り広げられ、両軍とも瞬く間に数万の兵がすりつぶされていきます。
 戦況は金帳汗国が圧倒的な火力で3倍近い敵軍を次々と撃破し、1700年6月8日、2年足らずでペルシア側からの講和条件を呑んで第1次ペルシャ戦争は終わりました。

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 この戦争でペルシアは金帳汗国にホルムズ、エルブルズ、メシェド、ケルマンの四州を、デリーにはメクラーンを割譲して一気に国土の3分の1を失いますが、
 短くなった国境に出来うる限りの要塞化が行われ、ナーディル・シャーによってまず軍が再建されたことでこの後思わぬ苦戦を強いられることになります・・・。

 さて、5年経ったらまた戦争ふっかけるぞと思っていたら、思わぬところから戦争が始まってしまいました。
 1704年12月8日、デリーがオマーンに宣戦布告して我が国に参戦を要請したのです。
 オマーンの同盟国であるペルシアとマムルーク朝も参戦したとの知らせをうけ、我が国も参戦します。

 しかし、準備が整ってない状態で開戦した為今一つ攻めきれません。
 野戦でこそ勝ち続けていますが攻城戦が思うようにいかず、1年半近くかけてファールスとルットとイスファハーンを陥落させるのがやっと。
 結局1706年5月22日にルットを割譲させて今回は矛を収めることにしました。

最後のムガール戦争とウクライナ動乱

 先の戦争で参戦を拒否し同盟を抜けたチャガタイはすぐにムガールと同盟を組んで我が国と対立する姿勢をとっていましたが、
 ペルシアとの停戦期間中の1710年に我が国とムガールとの間に起きた事件(ランダムイベント)をきっかけに両国が戦争を始めると、非力な同盟国を見捨てずに参戦してきました。
 こちらとしては願ったり叶ったりと要塞があったりなかったりするシルクロードを駆け抜けていきますが、同じ頃ポーランドとの国境地帯でも久しぶりに動きがありました。

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 政情不安なポーランドでウクライナ地方の反乱・独立はこれまでも度々ありましたが、
今回は2州いっぺんに独立したうえにあろうことかオスマン帝国と同盟を結ぶという珍事が発生。
 溺れる者は藁をもつかむとはいうけど、その藁はちょっと・・・。

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 おかげで我が国にも介入する大義名分ができました。最高のタイミングで横から殴りつけて兵器工場を手に入れようと百年ぶりにヨーロッパ方面軍を動かします。
 こちらの目論見どおり1州割譲のみでポーランドが講和したのを見計らってオスマン帝国に宣戦布告。兵を進めて難なく5ヶ月後には併合して工場ゲットです。(1712年9月21日)

 ウクライナを併合した頃にはチャガタイも屈服し、領土の半分近くを割譲すると自ら申し出てきていたものの我が国は首都以西のキルギスタンとタジキスタンの割譲のみでよしとしてチャガタイと講和しました。
 チャガタイを屈服させた後ムガール攻めに移って1714年1月6日、ホラーサーン割譲と属国化を受け入れさせて5回目にして最後のムガール戦が終わりました。これで中央アジアで残る敵はペルシアのみです。

 1726年10月11日、満を持してペルシアに3度目の宣戦布告。
 今度こそはと攻め立てるものの、レベル3要塞と山岳or砂漠の組み合わせであっという間に消耗していく上に
 イスマイール1世に匹敵する戦闘能力を持つナーディル・シャーが5万の兵を率いてイスファハーン包囲軍3万を全滅させるという状況に至って、要衝タバリスタン(テヘラン)の割譲のみでひとまず講和することにしました。

 満を持したはずなのに一時は戦線維持すら困難な程消耗したことに正直驚きましたが、
問題なのは残りのペルシア領もほぼ全て山岳か砂漠地帯であり、要塞もどんどん強化されていることです。
 一方、こちらは前線からアストラハンまでろくに徴兵できない土地を抱えており、今回のように一度まとまった兵力を失えば建て直すのに半年以上はかかってしまいます。
 このまま平押しするだけじゃ埒が明きません・・・・

コーカサス打通作戦

 というわけでシーア派連合に対する第二戦線構築のため、我が国にとっては喉元に突き付けられたナイフのようなコーカサス地方への進出を目論見ます。

 かつて同盟を組んでいたグルジアとアルメニアは今ではすっかり険悪な関係になっており、共同するという状況はまず無いとみていいでしょう。
 ランダムイベントでついた大義名分の期限も迫った1736年10月5日、アルメニアに宣戦布告します。
 特に変わったことも無く、1738年6月25日に首都以外の2州(ダゲスタンとクルディスタン)を割譲させました。

 これでマムルーク朝と領土を接することになります。今までペルシアに阻まれていたイラクやシリア方面への速やかな進出も可能になりました。

 準備を整えた後に外交画面を見ると意外なことにマムルーク朝はペルシアとの同盟を更新しなかったみたいです。
 よく見るとペルシアとは結構仲が悪くなっていますね。

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 敵を各個撃破する絶好のチャンスなので、1746年2月2日マムルーク朝に宣戦布告。
 我が軍はシリアや小アジアさらにイラクまで瞬く間に蹂躙して、1年2ヶ月後の1747年4月2日にアレッポ、アゼルバイジャン、ヌイサイビンの割譲の申し出を受けました。

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 アゼルバイジャンを得たことでペルシアとマムルーク双方ににらみを利かせる第二戦線の構築が完了しました。これで今までのように縦深作戦をとられることもないはずです。
 ついでにアレッポの割譲で、港はないけど地図上ではようやく地中海沿岸に進出しました。港のあるプロヴィンスを手に入れるのはもう少し後になります。

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   返す刀でペルシアに宣戦布告、タブリーズとファールスを割譲させてペルシア回廊を確保しました。(1756年6月27日)

 1757年7月30日・・東に南に順調に征服を続けていく金帳汗国に衝撃が走る!

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Last-modified: 2009-07-24 (金) 18:43:34