東奔西走〜来た、見た、負けた

欧州群像劇〜遠交近攻〜

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 1601年の世界地図

 ジーベンビュルゲンの近くにボスニアが独立してたり、ブルガリアとの戦争の結果ルメリアをアルジェが領有していたり、アルバニア戦役でペルシャがモレアを得ていたりオスマン帝国はどんな展開をしてもネタが尽きないですね。やはりEU2では欠かせない主役の一人だと実感します。

 さて、地図を見ていただければ判るかと思うのだが当時オーストリアが勢力拡大を図るには東か南が最も適当である。
 そして、相手の国力や技術格差を考えれば南に進出する方が容易い。そうなると標的はさしあたって3つ、オスマン帝国・ボスニア・ジーベンビュルゲンだ。
 中でも緩衝国家となっている2国はオスマン帝国との対決の前に除いておかねばならぬ障害である。
 しかし、ボスニアはフランスや教皇領と同盟を結んでいるため手が出せない。ならば残るは一つしかない・・・。

 かくして1603年3月23日、オーストリアの君主ルドルフ2世(皇帝位についてないからルドルフ5世の方が正しいかな?ちなみに皇帝位はヴュルテンベルク家がずっと保持しています)はジーベンビュルゲンの王位が空位(1602〜5年)になった隙に宣戦布告した。
 この報を受けたスペイン王フェリペ3世は特に考えたふうでもなく参戦に同意した。

 小国一つ潰すのにさして時間もかかるまいと思っていたし、彼には彼の思惑があったのである。

 一方、ジーベンビュルゲンでは玉座が空とはいえ宮廷が同盟国への参戦要請を行った。
 彼らの盟主イングランド、及びその同盟国であるポルトガル・フランドル・グルジア、オーストリア・スペインという大国相手にいずれも二つ返事で参戦に応じたのである。
 これで主戦場はネーデルラントとイベリアに移り、こちらに全力で攻めることはできない。
 あとは全力で持ちこたえてる間に盟主イングランドが相手の盟主スペインと適当なところで講和してくれるのを期待するしかなかった・・・。

 こうして、イングランド国王ジェームズ1世は即位した途端に(ジェームズ1世のStartdataは1603年3月24日)その手腕を試されることになったのである。

 イングランド軍は制海権を保つことには成功したが、2つの戦線特にネーデルラント方面を維持するのは困難でついにオーストリア・スペイン連合軍に大敗。
 ルドルフ2世はこれで南に全力で兵を送れると喜んだが、スペインからの使者が持ってきたのはあろうことか講和成立と平和条約調印に関する書類であった。
 講和条件はスペインがイングランド領内の軍隊通行権を得ることとイングランドからスペインへの賠償金である。
 イベリアでもろくに戦わず、ネーデルラントでも消極的だったスペインがもっとも得をしたのである。
 戦に負けたとはいえ同盟国を守りきったイングランドも面子を保っただろうし、独立を保ったジーベンビュルゲンは勝利したも同然である。
 ただただオーストリアのみが徒に兵を失い何も得ずに終わってしまったのだ。
 ルドルフ2世は地団駄を踏んだがどうすることもできず、その後弟マティアスに背かれ失意のうちに世を去ることになった。

 余談ですが、イングランド国王ジェームズ1世の受難の日々はまだまだ続きます。
 スペイン・オーストリアと戦争中にオスマン帝国がグルジアに宣戦布告し、やむなくイングランドも参戦。
 戦況がグルジア軍に不利になってきた1605年に盟主イングランドが賠償金を払う形で講和すると、翌月ネーデルラントでオランダ共和国成立。
 同盟国のフランドルは併合され、オランダはイングランド相手に独立戦争を起こします。
 オルデンブルグを拠点にしてなんとかしのぎますが、その後も第2次ジーベンビュルゲン戦争、グルジアによる金帳汗国、オスマン帝国との戦争と相次いで戦争に参戦し、最後にオルデンブルグ独立戦争で同盟が瓦解。1625年、終戦後まもなく死去してしまいました。
 盟主としての面子を保つために数々の戦争に介入し続け、その結果国力をすり減らし属州に離反され・・・ちょっと時代を先取りしたようなしてないような一幕でした。

 遠くの大国を利用してうまく国土を守った小国があれば、逆に国土を拡げた小国もあります。バルカンのもう一つの緩衝国家ボスニアです。

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  さりげなくヴェネトの交易所を独占とか・・・恐ろしい子!

 オーストリアがジーベンビュルゲンに宣戦布告してから半年近く、予想以上に攻めあぐねているオーストリアを見てボスニア国王はフランス国王アンリ4世に今こそバルカン半島に進出しオーストリアを牽制すべしとオスマン帝国との対決を促した。

 かたやアンリ4世もボスニア国王に言われるまでも無くその機を窺っていた。
 しかし、万が一英国が大敗して(orさせて)ブリテン本土の固い守りにひびが入れば千載一遇の好機である。
 主力をおちおちバルカンにやって後悔するのはごめんこうむりたいと考えていた。
 スコットランド・アイルランドを征服し、イングランドを包囲しているかのように見えるフランスも海軍力ではイングランドに一目置かざるを得なかったのである。
 だからこそ今度の戦争でスペイン海軍とつぶしあってくれるのを期待したのだが・・・

 「話にならぬ」アンリ4世は間諜の報告を聞くなりそう呟いた。
 スペイン海軍はもっぱら新大陸でポルトガル海軍と鎬を削っており、2、3回イングランド海軍とも交戦したが鎧袖一触蹴散らされたらしい。
 これではブリテン遠征など到底おぼつくまい。
 「今回は異教徒どもと戦うとしよう。しかし、あくまでもボスニア王国の要請に応える形でな」
 好機は程なくやってきた。
 1603年12月、既にグルジアと戦端を開いていたオスマン帝国はペルシアと諍いを起こして戦争状態に入ったのである。
 すかさずボスニア国王はオスマン帝国に宣戦布告し、フランスも手筈通り参戦。

 欧州随一の陸軍を阻むものは無く、3年後オスマン帝国はバルカン半島西部を手放さざるを得なくなった。
 すなわちコソヴォをボスニアに、マケドニアとヘラスをフランスに割譲したのである。

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 かつてフランソワ1世がスペインに侵攻したとき程露骨ではないが、向こうが散々な結果の後だっただけに効果は十分である。
 フランス王家は再びハプスブルグ家を出し抜いてみせたのだった。

 一方その頃、金帳汗国は1599年と1602年にランダムイベントで得た征服者でシベリア探検にいそしんでいました。
 二手に分かれた征服者は1609年にコリマ到達、そのまま北上してカムチャッカ半島北部で一人が、もう一人がシベリア北部を回った後に黒竜江沿いに探検中に1611年、12年と相次いで死亡してしまいました。

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 この頃にはアルタイの植民都市化が完了。なるべく都市化してから進んでいます。

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   アルタイにこそアルタイ文化を!

 金帳汗国で第2次シベリア探検が終わった頃オーストリアが再び動き出します。

 1612年、ルドルフ2世の弟マティアスは幽閉した兄の死を受けて正式にハプスブルグ家当主となった。
 同年1月29日、彼はかねてより進めていたジーベンビュルゲンへの再侵攻を直ちに実行させた。
 先の戦争は総司令官を務めたマティアスにとっても苦々しいもので、その上フランスに出し抜かれたとなれば焦燥に駆られるのもいたしかたないことであった。
 しかし、彼は兄と(あるいはかつての自分と)同じ過ちを繰り返すことになる。スペインにイングランドとポルトガルへの牽制を頼んだのだ。

 これに対してイングランドはあっさり大陸領を放棄してポルトガルと共に新大陸のスペイン植民地に襲いかかった。
 大陸領といってもオランダの独立でもはやオルデンブルグ1州しかなかったからだ。
 こうなるとスペイン軍はひとたまりもなかった。
 新大陸の将兵はあまりにひどい戦力差にイングランドよりオーストリアを呪ったという。
 一方、オーストリア軍もジーベンビュルゲン軍の頑強な抵抗の前に思わぬ苦戦を強いられていた。
 たかが小国と油断していたら首都包囲にこぎつけるまで1年以上かかってしまったのだ。
 そうこうしているうちにスペイン宮廷では厭戦の気運が高まり、開戦から約1年半後の1613年6月スペインがポルトガルにタンピコとリオグランデの割譲および賠償金の支払いという形で講和した。
 またしてもオーストリアの野望は頓挫させられたのである。
 「歩く道も、為す行為も、使う手段もすべてが中途半端でぐずぐずためらい、焦るだけだ。これが我が家の呪いだ」と嘆いたマティアスはその後1619年に嫡男を得ずして亡くなりました。
 その後ハプスブルグ家は彼らの従兄弟フェルディナントが跡を継ぎしばらく内治に専念することになります・・・。

 こうしたオーストリアの動きを見て安堵したのはポーランドです。
 ようやくリトアニアとの連合王国も実現した彼らが狙うのは東。
 かつて受けた屈辱を晴らすため、また異教徒からロシアを解放するための聖戦と称して金帳汗国に宣戦布告しました。

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狼煙は西から

 1612年6月23日、第2次ジーベンビュルゲン戦争真っ只中の時期でした。

 金帳汗国は知事の設置と植民に励んでおり、陸軍技術の研究に力を注いでいたものの軍拡など後回しにしていたため前線での兵力が不足し後退を強いられることになります。

 さらに同年8月17日、この戦況を見たスウェーデンがノルウェーと共に宣戦布告してきました。

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 3国とも陸軍レベルが11〜14あたりに対してこちらは未だに4。
 騎兵主体で編成してたのが功を奏して南のポーランド軍をドネツクで打ち破りポルタヴァを包囲しますが、北ではスウェーデン軍がアルハンゲリスクとヴォログダを包囲。
 さらにモスクワでポーランド軍に敗れて包囲→突撃であっさりモスクワが陥落。
 その後ポーランド軍は冬将軍の到来と共に兵を南に進めてクリミアとドネツクを包囲してきます。
 両要塞が陥落する前になんとかポルタヴァを落として戦勝点を戻した1613年3月、50dの賠償金を支払うことでポーランドと講和を結ぶことに成功。
 なんとか事なきを得ます。

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 一方、割と小勢の兵しか送ってこないスウェーデンに替わり9月ごろからノルウェー軍2万が一気に攻勢をかけてきます。
 9月18日にスウェーデン軍が1年がかりでヴォログダを落とすと、10月にはノルウェー軍がウラジーミルを突撃して占領。
 スウェーデン軍がモスクワに進むとノルウェー軍はカザンを包囲、突撃に入ってもうだめだと思った瞬間・・・!

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 戦線崩壊一歩手前でこの条件は正直ありがたかったです。
 二つ返事で受けて講和成立。
 最悪の結果は免れたとはいえ百年ぶりの対外戦争の結果は散々。早速軍の再建にお金をつぎ込みます。

東に、そして南へ・・・

 ポーランドに宣戦布告される4ヶ月ほど前、チャガタイ・ハーン国がチベットに宣戦布告して盟主である金帳汗国に参戦を要請してきました。
 チャガタイ・ハーン1国でも十分勝てる相手なので要請だけ受けて傍観しておくつもりでしたが、西での戦争が終わって心に余裕が出てくると「そういや、チベットならインドシナ辺りの地図を持ってそうだな・・・」と思い立ちチャガタイ・ハーンと地図交換をしてみるとやっぱりチベット〜中国国境以東の視界はぼやけてました。
 1614年2月、早速軍隊の通行許可をもらってウズベクに駐屯していた兵2万5千でチベットの首都ラサに進撃。
 昨年陸軍レベルが5に上がって突撃できるようになった我が軍は立て続けに城塞を攻略、同年12月26日に首都ラサを占領しました。
 肝心の地図は・・・

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                     ↓

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 べ、別に悔しくなんかないんだからっ(´Д⊂

 それから約1年後、再建途上にある金帳汗国軍にまたもやピンチが訪れます。

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 まず1615年11月にグルジアが宣戦布告。

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 2ヵ月後の1616年1月にはムガール帝国が宣戦布告してきました。
 最悪の二正面作戦です。

 陸軍レベルに差があるグルジアにはともかく、同じレベルのムガール帝国にも我が軍は連戦連敗。
 それでも最初の侵攻をかろうじて水際でくいとめることには成功します。

 4月に入るとオスマン帝国がグルジアに宣戦布告したためグルジア軍の大半は反転。
 攻勢に出る余裕など無い我が軍は各部隊の合流や補充、再編成を行い相手の出方を窺います。
 すると6月後半突然イングランド艦隊がクリミアに現れ、上陸戦を仕掛けてきました。
 たまたま駐留していた歩兵7千がこれを迎撃して、見事勝利します。
 これで盟主イングランドと交渉する糸口が出来たと思い、すかさず白紙和平を提案すると相手はあっさりこれに応じてくれました。  

 これで残るはムガール帝国だけです。
 後方で敗残兵をかき集め、援軍と合流させて10月に攻勢に出ます。
 折りしもムガール軍がウズベクの要塞を包囲し始めたので早速急行し、決戦を挑みます。
 見事に勝利した我が軍はそのまま首都サマルカンドまでなだれ込んで包囲しますが、11月の中ごろには立て直したムガール軍に敗れて撤退を余儀なくされます。
 その後12月6日にわずかな賠償金をムガール帝国に払うことを条件に講和が成立しました。

 これでトヴェーリ以外の全ての周辺国と平和条約下に入りました。
 もし適当なところでトヴェーリが宣戦布告してたら、状況次第ではモスクワ割譲からロシア帝国成立の可能性もあったので、いつ宣戦布告されるか内心ひやひやものでした。
 

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Last-modified: 2007-11-18 (日) 18:57:39