嗚呼、金帳汗国(キプチャク・ハーン)

60年目の東方外交

1483年の世界地図

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 さて、かつて金帳汗国と袂を分かったシビル・ハーンを再び版図に加えたハーンは同じくかつて勢力圏下にあったノガイなどティムール帝国との間にまたがる諸勢力の併呑を画策していた。 しかも、極力武力を使わずに。  まずは既に同盟関係にあるカザフスタンと王族間の婚姻を結んだ後、折に触れては外交官に贈り物など贈らせて親密な関係を築いていった結果1491年4月にカザフスタンは金帳汗国の属国になることを受け入れた。

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 その頃西欧ではフランスがジェノヴァを併合した為、最後の中核州ケルチがフランス領になってしまいました(1489年1月)。ジェノヴァと違って反乱軍への対処もばっちり。後年には改宗まで成功させてしまい、回収できる可能性は限りなく低くなってしまいました・・・。

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 話は再び東に。カザフスタンを属国化した後もう一つの隣国ノガイと友好を深めていきますが、ノガイはウズベクと同盟を結んでいるので切れるまでぼーっとログを観察しておきます。

 ぼーっとしてた間、久しぶりに出たランダムイベントは「無礼な外交」しかもスズタリに大義名分という実に好都合な展開。(1499年1月)  1499年6月に宣戦布告して、特に問題も無く1501年9月に併合しました。

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 スズタリ併合の約2ヵ月後の1501年11月。ノガイ・ウズベクと共に同盟を結んでいたチャガタイ・ハーンがチベットと戦端を開き、両国に参戦を要請したが両国は共に参戦を拒否して同盟を離脱。  ここですかさず貯めこんだ外交官を使って両国ともこちらの同盟に引き込むことに成功。これで事実上サマルカンド以北を掌握したようなものです。

 そして1502年3月3日、満を持して送った外交官はカザフスタンが併合要求を受け入れたことを嬉々として報告してきた。

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 これでいわゆるシベリアの扉を押さえたわけですが、ロシアみたいに征服者が出てくるわけではないのでランダムイベントか陸軍レベルの上昇をひたすら待つしかありません。

 以後、何十年か内政に専念し続けます。その間に起こったトヴェーリとプスコフによる戦争を傍目で眺めつつ首都に美術学校を建てたりしますが(1512年2月)、引き篭もってる間に周囲の状況が一変してしまいました。  発端はオスマン帝国の冷酷者ことセリム1世でした。常にバルカン半島と小アジアで二正面作戦を強いられてきたオスマン帝国は新たに興ったサファヴィー朝ペルシャに対して十分な兵力を確保できなかったのです。  アルバニアの英雄スカンデルベグにバルカン半島を席巻されてからというもの帝都イスタンブールは常に最前線に置かれ、キリスト教諸国とも深刻な対立が続く今これ以上アジア方面に戦力を割くことは困難であった。  なんとしてもアルバニアに対して反撃に出るためセリム1世は決断した。

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 なんと、国教をシーア派に変えてしまったのである。  確かにこれでマムルークやペルシャは大義名分を失って容易に戦争を仕掛けられなくなってしまったが、帝国内の最大勢力であるスンニ派の不満は後に相次ぐ反乱となって表れていきます。  我が国から見ても、オスマン帝国が完全に敵対勢力になってしまったのは大きな痛手です。そして、後顧の憂いがなくなったのはオスマン帝国だけではありません。  ペルシャの英主イスマーイール1世はセリム1世の決断の後も隙あらば一戦交えんとオスマン帝国の動静を探っていたが、ある日一通の書簡が届くなりすぐさま軍の主力を西の国境から引き上げた。盟友−あくまで一時的なものだが−バーブルからの書簡には一言、「ウズベク討つべし」

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 金帳汗国が本格的に参戦する前にウズベクを屈服させる。バーブルの狙いはその1点であった。  東からアフガン騎兵が、西からはイスマーイール1世率いるクズルバシュが瞬く間にウズベク領を蹂躙していった。ウズベクはすぐに同盟国である金帳汗国とノガイに援軍を要請したのだが、それ以上に敵の侵攻は素早かった・・・。

 さて、当の金帳汗国にとってもセリム1世の決断とバーブルがイスマーイール1世と手に手をとって戦争をふっかけてきたことは予想外でした。  とりあえず一番近くにいた旧カザフ軍3万を国境線に張り付けて様子を見ます。ノガイ軍もまったく動く気配がありません。幸い敵軍は我が国やノガイに侵攻する気はないみたいだったので我が軍は静観することにしました。下手に手を出したら総力戦になりますから・・・  そして開戦から8ヶ月半たった1515年11月24日にウズベクがムガールに250$の賠償金を払うことでこの戦争は無事終わりました。ちなみに金帳汗国が惰性的な和平を結んだのは1518年12月のことです。

 その後程なくしてイスマーイール1世はカリフ領に侵攻してオスマン帝国の介入を招き(1519年10月)、バーブルと共にセリム1世及びスレイマン1世と幾度か会戦したもののことごとく打ち破られ、ペルシアはタブリーズをムガールは賠償金を払って講和。(1523年)  ある意味史実どうりオスマン帝国に敗れたショックでイスマーイールは亡くなり、タフマースプがペルシャで即位します。  オスマン帝国はまるで彼の死を待っていたかのように帝都に軍を集結させ、ついにアルバニアへの反撃を開始。(1524年)2年後にはヘラスとマケドニアを割譲させ雪辱を晴らすと半年もせずにヨハネ騎士団に宣戦布告。2年ほど消耗戦をやっている間にイベントで騎士団がスペインの属国&マルタに移動してさらに長期化。  戦争が7年目に入ると騎士団に泣き付かれた形でスペインがイングランドと共に参戦。すると、ほぼ同じ時期にムガールとの同盟を解消したペルシャがオスマン帝国と同盟を結んでこの戦争に参戦。キリスト教勢力とイスラム教勢力の一大戦争に発展してしまいますが、思わぬところから幕が降ろされます。

 1535年、スペイン領シチリアで反乱軍がシチリア王国の独立を宣言するとフランスがそれをいち早く承認し同盟を結んでスペインに対して宣戦布告。ピレネー山脈を越えた陸軍と仏地中海艦隊によるカタルーニャ強襲で決定的なダメージを受けたスペインはついにオスマン帝国に賠償金を払って講和を結びました。  この後フランスはスペインを強国の地位から引き摺り下ろしたことに満足して講和を結ぶとさっさとシチリアを見捨てます。  宗教よりも政治を優先したいかにもフランスらしいやり口ですね・・・というか、AIだけでもこんな面白い展開するときがあるんですね。色々妄想しながらログを見てました。まあ、他にネタがなかったとも言いますが・・・

 その間金帳汗国はひたすら内政と外交活動に専念していました。君主の能力は最低ですが努力のかいあって、1527年10月にノガイ属国化

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 1533年1月にはウズベクを属国化

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 そして、1539年2月にノガイの外交併合に成功しました。シビル汗国の併合から56年、敵と矛を交えることなく拡大してきた金帳汗国はやがて大きな壁に突き当たることになります。

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Last-modified: 2020-09-21 (月) 16:44:05