第9次BBW

1741年2月に首都のみとなったジェノヴァがフランスに宣戦布告。7月にはこれを落とし併合することに成功した。その後1年間の休戦期間を得ることができたフランスは戦争疲弊を全て回復することができた。

今回の戦争では引き続き中央アジアの制圧に主力を置くことにする。

1742年6月デリーがフランスに宣戦すると、休戦帰還の切れた国が次々と宣戦し始めた。

ジェノヴァから割譲した3州はすべて反乱軍により奪われており、Kaffa、Kerchはクリミアの領土となっていたのだった。Kolkhisもおそらくそうなるだろうと思っていたフランスだったが、予想に反して1742年11月、Kolkhisはイメレティとしてフランスから独立してしまった。フランスは慌ててオスマン進攻軍から兵を裂き、イメレティへと進軍した。

オスマン帝国は度重なる領土の割譲によって完全に力を失っていた。フランスは次々と城を落とすことに成功。1743年10月には8州を割譲させた。

中央アジアではサファーヴィー帝国を完全に制圧し、首都以外を割譲させた。

チャガタイ汗国への防波堤として残しておいたムガール帝国であったが、チャガタイ汗国がヒヴァ、ムガール帝国、シビル汗国との同盟国として参戦したことで残しておく価値は無くなった。フランスはムガール帝国を制圧し、首都以外を割譲させた。

フランス軍はさらに北上し、1744年4月ヒヴァの全土の制圧に成功。首都以外を割譲させた。これによりカザフ汗国と領土を接することになり、宣戦布告された。フランス軍はさらなる北上を始めた。

1745年6月にはカザフ汗国の全土を制圧し、首都以外を割譲させた。

1745年11月チャガタイ汗国の制圧に成功した。チャガタイ汗国の東2州を取ってしまうとチベット、満州と接してしまうためそれ以外を割譲させるつもりだったが、州の選択を間違ってチベットと接してしまう。翌月フランスはチベットから宣戦された。同盟国であったビルマが参戦を拒否したのが唯一の救いだった。

1745年12月シビル汗国から3国を割譲させて講和
1745年12月ベンガルと停戦
1745年12月ポーランドと停戦

チベットを併合するとビルマに接してしまうため、賠償金の支払いで講和を求めたフランスであったが、チベットの拒否にあい、仕方なく進軍した。半年後に制圧に成功し、講和することができた。

これで中央アジアの制覇はほぼ完了した。だが、船での移動がメインのフランスには中央アジアの北部に兵を輸送するのは非常に面倒であった。しかし、幸運にもOmsk、Semipalatinsk、Novosibirskという基本課税額の高い州が未植民であったのだ。すかさずフランスはここに植民者を送ることにした。この3州の都市化によってシビル汗国、その後のモンゴルとの戦いでヨーロッパから軍隊を輸送せずにすんだ。

中央アジアでの戦いはその損失のほとんどが消耗によるものだった。包囲に必要な人数がほとんど州供給を上回っており、あっというまに攻城戦がとまってしまっていた。しかし、大規模な軍隊を送る余裕はとても無かったフランスは、包囲に必要な人数ぎりぎりで包囲しつつ、毎月1〜2千人を追加するという実に地味な方法で進軍していった。

ヨーロッパ戦線ではこの間ついにロシアがクリミアを押さえこみ、Orenburgをロシアに割譲させることに成功した。

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第9次BBW後の中央アジア

第10次BBW

1749年8月に小作人達の不幸が発生。25都市で反乱が発生するという惨事に見舞われた。

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中央アジアを制したフランスは次なる東南アジアに兵を進めることにした。ベンガルを制圧し、ビルマとモンと国境を接したフランスであったが、ビルマはベンガルと戦争中であったため、布告を受けることはなかった。そしてモンは満州の同盟国であった。

フランスはそろそろ満州との戦争を始める必要に迫られていた。広大な領土を持つ満州を全て制圧するのは長い時間を必要とするからである。満州に攻め入るルートは2つあった。チベットからの内陸のルートと、東シナ海からの海洋ルートである。フランスはこのうち海洋ルートを選択した。海に面した満州の都市は豊かな州が多く、そのため供給量が多く攻めるのにたやすく、またCoTのある州もあるからであった。モンは同盟主である満州との講和のポイントのために制圧するにとどめ、東南アジアのフランス軍は中国大陸東岸へと移動を始めた。

フランスのカロネード砲に対して満州はいまだに青銅砲であり、海戦はフランスの一方的な勝利に終わった。上陸に成功したフランス軍は次々と都市の陥落に成功し満州から5州を割譲させて講和した。

中央アジアでは残る国家を次々と併合し、制圧していった。シベリアの冬には苦戦したものの、植民化の完了した3州から逐次兵力を投入し続け、シビル汗国を首都のみとした。

満州の同盟国であったモンゴル部族連合にも攻め入ったが、雪と消耗のため単独講和による割譲ができるほどのポイントを得られなかったため、満州と同盟による講和とした。

ヨーロッパ戦線ではフランスの同盟国の働きはめざましく、ポーランドを完全に制圧し、首都以外を割譲させることに成功。またクリミアにも勝利を重ね2州をオーストリアへ、1州をロシアへ割譲させた。

実はヨーロッパで一番苦戦したのはイメレティであった。正教州のため、同盟国による占領を期待していたフランスであったが、同盟国を次々と打ち破るイメレティ軍を見て気づいた。フランスから独立したイメレティ軍の陸上技術はフランスに匹敵するものであったのだ。フランス軍の投入によりようやくKolkhisは陥落し、ロシアに併合されることになった。

凋落著しいオスマン帝国はもはや組織的な抵抗はまったくできず、アナトリア側は首都AnatoliaとArmeniaを除く州を割譲させ、さらにThraceを割譲させた。今更気づいたが、オスマン帝国の首都がAnatoliaのままなのを初めて見た。

1755年すべての交戦国と講和が完了し、フランスは一時の休息となった。この時点で戦争疲弊は+5〜+10となっていた。

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第10次BBW後のヨーロッパ。ポーランド、クリミアの領土割譲に成功している。

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第10次BBW後のアジア

第11次BBW

戦争疲弊の増してきたフランスであったが、さらに増えた領土の反乱に対処するにはあまりに兵力が不足していた。そこでいくつかの地域でさらに城塞化を進めることにした。スカンディナヴィア、中央アジア、アフリカ東岸、アラビア半島、インドといった地域では城塞レベルを最低3とし、兵を投入しなくても疲弊だけで攻城が止まるようにした。それでも反乱が重なることによって落城することはあったのだが…。

2年の休戦期間を置いて1757年から第11次BBWは始まった。フランスは東南アジアに兵を進めるとともに、満州とモンゴルに領土を広げることを目標とした。

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1755年の東南アジア

東南アジアの諸侯は全くフランスの敵ではなかった。沿岸州が多く、フランスには移動が楽であったためである。フランスにとっての敵は消耗だけであった。

その点モンゴルは地獄のようであった。未発見地域であるモンゴルは進軍だけですさまじい時間がかかり、供給量の少なさ、雪による消耗などすべての要素がフランスにとって不利だった。また、モンゴルには城塞レベルが0の都市がかなりあり、これによって戦闘に破れたモンゴル軍の逃げ先がそのままモンゴルによって占領されるという事態を引き起こし、モンゴル軍が壊滅するまで追いかけっこを重ねるという非常にまずいことになった。

一方満州戦線ではフランス軍は勝利を重ねて行った。100%の制圧率にならない限り、こちらからの領土の割譲の打診は戦果ポイントに対してかなり低く提案しなければ相手は受諾してくれない。しかし、相手からの割譲の申し出は戦果ポイントに近い量であることがしばしばである。広大な満州を100%制圧するのは困難であるので、フランスは戦果ポイントが99%の段階での満州からの打診をもって講和する予定でいた。しかし、モンゴルの同盟主である満州と講和をすることは、同時にモンゴルと講和することでもある。これではいつまでたってもモンゴルから領土を奪うことはできないので、まずモンゴルと単独講和をした後に、満州からの割譲の提案を待つという手順を踏む必要があった。だが、上記のような状態でモンゴルへの侵攻はなかなか進まなかった。1763年10月にようやくモンゴルとの講和はなったが、その後の満州からの提案はフランスを満足させるものではなかった。

占領下にある州に対する反乱は所有国と占領国のどちらに対しておこなわれるのであろうか。どちらの理由だったにしても満州の半ばを占領していたフランス軍占領下の州で反乱が発生したとき、フランス軍はこれを使ってターボアネクションを試みることにした。それまで満州の統治は民衆を満足させていたのか、反乱が発生する様子は全く無く。フランスはターボアネクションは知っていながらも、とても使う場面はないと思っていた。しかし、長引く戦乱のためか、単にフランスに対する反乱なのかはわからないが、とにかく反乱は発生した。

フランスは反乱軍を潰されないよう反乱の州を囲むように兵力を配置し、満州軍が奪還できないようにした。また、満州が攻め取っていた日本のShikokuでも反乱が発生していた。フランス軍はさっそくShikokuの港を封鎖した。さらに残りの満州の領土にも兵を進めた。満州北部では雪と供給量の少なさに苦戦しながらもターボアネクションの成功を信じ、フランスは兵力を投入し続けた。

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攻城を行う反乱軍とそれを守るフランス軍

1765年10月満州の政府崩壊

満州の領土は首都HebeiとShikokuのみとなり、Lao Caiでは中国が独立した。領土の接した日本と中国がフランスに宣戦。さらに停戦期限の切れた国が順次フランスに宣戦布告してきたが、そのどれもがフランスと戦う戦力は持っておらず、順に併合されていった。1774年までにフランスはアジアをほぼ制圧し、残るは東南アジアの島国と、同盟国に囲まれてフランスに宣戦していないヨーロッパの数国であった。

世界制覇は目の前であった。

1774年7月オーストリア領Vorpommernがシュテッティンとして独立しオーストリアに宣戦布告すると、同盟国はすべてこれを拒否した。

フランスは併合に外交官を次々と投入していった結果、このとき外交官を1人しかもっていなかった。

フランス同盟は終わりを告げた。

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1774年のアジア


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Last-modified: 2006-10-24 (火) 20:37:40