第6次BBW

休戦期間はそのすべてを反乱の鎮圧に費やされた。反乱軍による制圧とフランス軍による奪還はもはやいたちごっこであった。戦争による疲弊が癒えるまもなく1719年3月アデンがフランスに宣戦すると、同盟国であるクリミア、ヒヴァ、シビル汗国、ガーラが次々と参戦。第6次BBWはその幕を開けた。

休戦を欲していたフランスは、アデン、ガーラの1州しか持たない国を併合するとすぐさま同盟主であるクリミアと講和した。

1720年3月、オスマン帝国、アル=ハサーがフランスに宣戦。アデンから奪ったBasrahが孤立しており、反乱によって駐屯軍が全滅し、包囲されている状態だったので、フランスはBasrahと接する領地を欲していた。そこでアル=ハサーからDammanをオスマン帝国からIraqを割譲させるべく進軍を開始した。1720年7月アル=ハサーからDammanを割譲させ、オスマン帝国へと矛先を変えたフランス軍は次々と城を攻略していった。

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孤立しているフランス領Basrah(桃枠)。同色でわかりにくいが、右はサファーヴィー帝国。

1722年6月、オスマン帝国へ北進を続けるフランスにサファーヴィー帝国が宣戦した。サファーヴィー帝国はオスマン帝国に進軍し空となったBasrahを包囲し始めた。フランスにとってこれは非常にまずい事態であった。アラビア東部と西部はIraqによって分断されており、占領はしたもののまだフランス領となったわけではなかった。

フランスはすぐさまオスマン帝国と講和することを決意した。1722年7月、フランスはIraq、Lebanonをオスマン帝国から割譲させ講和すると、その軍をサファーヴィー帝国へと向けた。

この間ヨーロッパの各国から宣戦されていたフランスだったが、ヨーロッパにまでまわす兵力はとてもなく、Goaを取る必要からポルトガルを占領した以外は放置していた。1722年3月にポルトガルからGoaを割譲させ、講和した。

アフリカではコンゴが休戦期間を終え、フランスに宣戦した。しかしまったくフランスの敵ではなく、反乱の鎮圧の片手間に進軍し1722年6月、首都を残して全ての州を割譲させた。

1723年6月、サファーヴィー帝国からアラビアの飛び地であるAl Kharamを割譲させて講和した。これでサファーヴィー帝国の港を封鎖するのに消耗を気にする必要が無くなった。

もう一つの激戦地インドはと言うと、ポルトガルからGoaを奪い、首都のみとなったヴィジャヤナガル、コーチン、マイソールを併合した。だが、その後ムガール帝国、デリー、オリッサという3国を相手することはフランスには不可能だった。そこでフランスは敵をオリッサに絞ることにした。デリーとムガール帝国とは講和をし、オリッサの制圧に向かった。1724年4月、オリッサからYanam、Berhampur、Bombay(ムガール帝国から奪っていた)の割譲の打診があったので、これを受け停戦した。

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今回フランスが獲得した領土(桃枠)

これでひとまずの区切りが付いたと安堵したフランスに1725年1月、突如ジェノヴァが宣戦布告した。ジェノヴァは1705年の停戦後、1710年のアルスターの参戦要請を拒否して以来全く反応が無かった。そのためフランスはその存在を忘れていたのだった。さらに同月ポーランドが宣戦布告。戦争疲弊を下げたかったフランスは即座に外交官を送り、賠償金の支払いで停戦を提案したが拒否された。

フランスはジェノヴァの首都Liguriaへと進軍、1725年8月にこれを落とし、11月ジェノヴァと停戦した。この間に停戦期限の切れたアル=ハサーがフランスに宣戦し、併合された。

これで残るはポーランドだけとなった。ここで単独講和をすれば、あとは放っておいてもオーストリア、ロシアがポーランドから領地を割譲するだろうと思ったが、フランスは別の考えがあったので同盟として講和をした。それはアイルランド諸国とエチオピアである。いつまでも残っているアルスター、コンノートと正教国であるため取るに取れないエチオピアはフランスの悩みの種であった。そこでフランスはイングランドを併合し、かわりにエチオピアを同盟に組み込むことにした。

イングランドへ贈り物を続け、1727年5月に併合。8月にエチオピアを同盟に招いた。

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第7次BBW

イングランドを併合し、エチオピアを同盟に招いている間にポルトガルがフランスに宣戦。第7次BBWは始まった。フランスはこの戦争で次の狙いをつけた。

・アイルランド諸国の制圧 ・クリミアの弱体化 ・インドの制圧 である。

イングランドを併合した理由でもあるアルスター、コンノートの制圧は当然として、BBW開始時から全く領土の減っていないクリミアをそろそろなんとかしてもらう必要があった。サファーヴィー帝国の後、ヒヴァ、シビル汗国を攻めるに際し、ロシアの援護は是非とも必要だからだ。しかしこれまでロシアはクリミアには押される一方であった。フランスはこれをオスマン帝国に戦力を割かれているせいだと判断した。そこで今回はオスマン帝国はフランスのみで相手し、ロシアにはクリミアに全力で当たってもらおうと考えた。

コンノート、アルスターは都市の要塞化を進めており、要塞レベルが3〜4と包囲に必要な人数が州の供給量を上回っていたため、攻略が非常に面倒であった。だが、ヨーロッパでは傭兵が利用できるため、失った兵力を傭兵を雇うことによって逐次投入し続け、両国の制圧に成功。コンノートを併合し、アルスターを首都のみに割譲させ属国化した。また、首都のみであったポルトガル、コンゴを併合した。

これまでの戦争からフランスのみでも十分戦うことができると踏んでいたオスマン帝国であったが、開戦前の予想を裏切る展開となっていた。フランスはオスマン帝国のLeaderであるHakimoglu Aliに敗走を重ねていたのである。射撃2白兵3とそれほど強いとは思えないのだが、なぜかフランス軍はあっという間に士気値を下げられ敗走してしまうのだった。そこでフランスはHakimogluとの会戦を避け、オスマン軍が城を包囲してる間に、他の城を落とすという困ったときのいつもの戦術に切り替えることにした。そして1730年2月、Aleppo、Tabriz、Syria、Taurusを割譲させることに成功した。

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オスマン軍に押されるフランス軍。

サファーヴィー帝国戦線は順調に進み、1729年にHormouz、Awhaz、Hamadanを割譲させて停戦した。

今回最も兵力を投入したのはインド戦線であった。その甲斐あって、ムガール帝国を首都のみに、デリーから3州を割譲させ、オリッサを首都のみにして講和することに成功した。これによりインドの大部分を制圧することに成功したフランスは今後の主力をサファーヴィー帝国とその北部へと向けていくことになった。

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今回獲得した領土(桃枠)

一方クリミアに集中させたはずのロシアであったが、まったく戦果を上げられずに終わった。

第8次BBW

フランス文化、カトリック州以外では反乱率がどこも20%を超えていた。1731年9月のジェノヴァとの講和から2年間の休戦期間をもつことができたフランスであったが、大きすぎる戦争疲弊を回復しきることは不可能だった。1733年11月アルスターがフランスに宣戦布告した。さらにジェノヴァがわずか2年の休戦期間でこの同盟に参加してきたのである。フランスはここでジェノヴァ制圧を決意した。

10ヶ月の包囲を経て1734年9月、アルスターを併合。翌10月にはポーランドが宣戦した。ポーランドは同盟国に任せ、フランスは黒海沿岸のジェノヴァ領を包囲し始めた。

1735年5月、休戦期間の切れた国が続々と布告。オスマン帝国、サファーヴィー帝国、デリー、ベンガルとアラビア、インド方面での戦争も始まった。インドでベンガルから領土を割譲させると東南アジアの大国ビルマと接してしまうので、オリッサまでで進攻を一時ストップすることにした。フランスは主力をサファーヴィー帝国からその北部へと用いることにした。

1735年10月、ようやく全てのジェノヴァ領を制圧し、首都のみにすることに成功した。しかし、ジェノヴァから割譲させた3州は全てが飛び地でしかもうち2州が正教国であった。反乱必死なこの州を維持するのは諦めることにし、駐屯軍を置かずに反乱に任せることにした。

1736年にクリミアが宣戦すると、同盟国であるヒヴァ、シビル汗国、ムガール帝国も参戦。前回首都のみにしたムガール帝国であったが、その後戦争によって2州を得ていた。サファーヴィー帝国を制圧しつつ、さらにヒヴァへと攻め入り1737年6月にはヒヴァからHerat、Kara Kum、Khorasanを割譲させて停戦した。ムガール帝国を落とす余裕はあったのだが、領地が丁度チャガタイ汗国にかぶさるようにあったので、放っておくことにした。ヒヴァとの単独講和の後、同盟主であるクリミアと講和した。

1737年5月デリーの全ての州を占領したが、首都以外の割譲には応じず、2州を残し講和することにした。 1737年6月ポーランドと講和。今回も州の獲得には至らなかった。

1737年8月、これまで何度かサファーヴィー帝国に条件を出していたフランスだったが、その全てを断られており、サファーヴィー側の提示条件で講和することにした。獲得州は10州であった。

1737年9月オスマン帝国からSivas、Ananda、Angoraを割譲させて講和。 1737年10月ベンガルと講和。

対外的には大きな効果を上げた戦争であった。だが、そのしわ寄せは確実にフランス国内に広がっていた。最早発生する反乱を鎮圧できる兵力はフランスには無かった。フランスは落ちそうな城から救っていくのではなく、落ちた城を奪還するのがせいぜいであった。

しかし、得るものもあった。国内平定用の軍隊の縮小を迫られていたフランスは、1部隊当たりの担当区域を広げざるを得なかった。そのためどうしても移動が船によるものとなったが、予想以上に船での移動速度が速いことに気づいた。これ以降フランスはその移動のほとんどを船に頼ることになった。

フランスはこの後1741年までを休養期間に当てることができた。戦争疲弊を完全に無くすまでには至らなかったものの、首都で+4、アフリカやアラビア、インドでは+8となるまでに回復することができた。

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第8次BBWの成果。桃色はデリー、黄色はサファーヴィー帝国、水色はヒヴァから獲得。


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Last-modified: 2006-10-23 (月) 23:51:22