第1次BBW

1679年BBWは始まった。最初の停戦交渉が切れる1685年までを第1次BBWと呼ぶことにする。第1次BBWでフランスに布告してきた国家は全部で20ヶ国であった。フランスはまずこの段階では大まかに次のような方針を立てた。

  • 新大陸とアフリカのポルトガルをできるだけ減らす。ただし、キルワには接しないようにする。
  • アフリカで宣戦してきた国家はすべて潰す。(ただしエチオピアは正教のため割譲は行わない)
  • ヨーロッパ本土のスイスはスイス文化、改革派と統治が面倒なのでオーストリアかスペインに占領させる。プファルツはドイツ文化だがカトリックなのでフランスで占領する。東ヨーロッパは同盟国にまかせっきりにする。
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桃色の枠がフランスの目標

1680年10月ハウサを首都のみに
1681年3月モロッコ併合
1681年5月ティンブクトゥ併合
1681年7月グラナダ併合
1681年10月プファルツを首都のみに
1682年1月ポルトガルから11州を奪い講和

ここでフランスは大きなミスをしてしまった。ポルトガルとの講和交渉で提示された11州を見て気分よく合意したのだが、これによってキルワと接してしまったのだ。フランスと国境を接したキルワは当時クジャラートと戦争状態だったため、フランスに宣戦はしなかったのだが、1684年に停戦が成立すると、同盟国のコーチン、イッケリ、ムガール帝国を誘ってフランスへと宣戦してきた。丁度ジンバブエと戦端を開いており2正面作戦をできるほど兵力に余裕が無かったフランスは、同盟主であるイッケリに賠償金を払って停戦することにした。だが、イッケリはこれを頑として拒否。結局4度目の交渉にしてようやく講和を結ぶことができたのだった。

1682年1月オスマン帝国から2州をオーストリアに割譲させ講和
1682年1月ヒヴァと停戦
1682年1月アルスターと停戦
1682年1月コンノートと停戦
1682年1月ゴトランドと停戦
1682年1月聖ヨハネ騎士団と停戦

アイルランド諸国の撃破を期待したイングランドだったが全く役に立たず逆に攻められる一方だった。

1683年1月ジェノヴァと停戦
1683年2月トレムセンを首都のみに
1683年4月スイスをロシアが併合(思惑通りにいかずロシアがスイスを占領してしまった。)
1683年9月トリポリを併合
1684年4月エチオピアと講和
1684年8月アシャンティ併合

トレムセンから独立したアシャンティであったが、領地の接していない両国はお互いに攻める手段が無く、3年後の惰性的な和平によって講和したのだった。そして戦争状態でなくなったアシャンティはフランスに宣戦。だがこのときアシャンティはヴェネツィア、ポルトガル、ポーランド、コンノートとの同盟に参加していた。参戦の要請を受けた各国はヴェネツィアの除いて参戦。こうしてフランスはポルトガルとコンノートとまたも戦う羽目になったのである。

1684年8月ジンバブエを併合(異教国家のため一発併合)
1685年2月ポーランドと講和

同盟国によるポーランドの侵攻を期待したフランスだったが、逆にポーランドに押される状態を見て領地の割譲は諦めることにした。

1685年2月ポルトガルから4州を割譲させ講和
1685年6月イッケリと講和

この段階でフランスの戦争疲弊は首都や新大陸などは+5、アフリカに至っては+10となっていた。平和を欲していたフランスだったが、各国はそれを許さず、停戦期限が切れ次第宣戦布告してくるのだった。

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尚、コンゴはポルトガルからの参戦要請を拒否して以降フランスに宣戦することは無かった。隣に植民地を建ててみても全く反応を示さなかった。謎である。

第2次BBW

イッケリとの講和でひとまずの区切りはついた。第1次BBWの目的はほぼ完全に遂げることができた。またこの月、植民地の反乱が発生した。9都市で反乱、うち6都市を失った。独立はなんとしても阻止しなければならないので早急に奪還に努める。

1685年11月に停戦期限の切れたハウサから宣戦布告。フランスに許された休息はわずか5ヶ月でしかなかった。ハウサを皮切りに停戦期限の切れた国が次々とフランスに宣戦布告してくることになった。第2次BBWの始まりである。だが、戦争疲弊の激しいフランスはなるだけ各国と早期に和平することで少しでも戦争疲弊を減らすことにした。

1686年5月ハウサ併合
1686年11月ヴェネツィア、プファルツ、ジェノヴァ、アルスターが宣戦布告
1687年2月聖ヨハネ騎士団が宣戦布告
1687年2月ゴトランドが宣戦布告
1687年2月オスマン帝国、アデン、マリンディが宣戦布告
1687年4月クリミア、シビル汗国が宣戦布告
1687年8月プファルツと単独和平

プファルツはオーストリアが占領してしまったので、そのまま併合させるために単独和平することにした。

1688年2月ムガール帝国がヴィジャヤナガルに宣戦布告

これによってキルワが戦争状態になった。フランスには非常にありがたいことだ。せいぜい長引いてくれることを祈ることにする。

1688年6月ヴェネツィアと講和
1688年9月トレムセンを併合
1689年3月オスマン帝国からフランスへアフリカ2州、ロシアへ4州を割譲させ講和
1689年3月アルスターと講和
1689年3月聖ヨハネ騎士団と講和
1689年3月クリミアと講和
1689年6月エチオピアが宣戦布告
1690年3月ポルトガル、ポーランド、コンノートが宣戦布告
1690年7月ゴトランドを併合
1690年7月ポルトガルと講和
1690年7月エチオピアと講和

エチオピアとの講和をもって第2次BBWの終わりとする。次に停戦期限の切れるのは1693年10月であり、3年少々の休戦期間をおくことができる。戦争疲弊による反乱はその勢いを増し、反乱州にさらに反乱が発生することによってそのまま州を占領されてしまうという状態になっていた。フランスはこの休戦期間を使って反乱の討伐と、奪われた州の奪還を図ることにした。

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第2次BBW終了後のヨーロッパと北部アフリカ。イングランドがアイルランドを制圧してくれなかった以外は順調だった。

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第2次BBW終了後のアフリカ。ほぼ理想通りの展開。

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こちらは南米。ポルトガルの駆逐に成功した。

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北米。他国から攻められることはなかったものの、反乱の鎮圧には苦労した。

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1693年段階での収入と内政スライダー。防戦主義への移行はランダムイベントも手伝って予想以上にスムーズに行うことができた。


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Last-modified: 2006-10-22 (日) 13:38:03