オマーン、大洋の帝国(オマーン)

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オマーンの歴史:前近代

http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Omanの一部を和訳

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オマーンは7世紀にイスラームを受け入れた。これは預言者ムハンマドの存命中のことである。(註)
8世紀からはイバード派がオマーンの主要な宗派となった。
ちなみにイスラーム世界においてオマーンはイバード派信徒が多数を占める唯一の国である。
イバード派は『穏和な保守主義』で知られ、共同体の総意によって首長を選出するという特徴がある。
(註:オマーン人はこのことをものすごく誇りにしているらしい。
オマーンの改宗はアラビア半島の中でもかなり早期で、ヒジャーズに次ぐ)

1970年までオマーン首長の称号は『マスカットおよびオマーンのスルタン』であった。
これは歴史的に相容れない二つの政治的風土を含んだ称号といえる。
それはスルタンに支配される沿岸の『マスカット』(コスモポリタンで世俗的)と、
イバード派の教義にしたがってイマームに支配される『内陸』(閉鎖的、部族的)である。
折にふれてイマーム支配の伝統が復活したものの、
1744年のブーサイード朝成立からはコスモポリタンな『マスカット』的伝統が
オマーンの政治風土において優勢となった。

数千年前、アラブ諸部族は東方へ移住しオマーンに至った。
その頃のオマーンではペルシア人が勢力を増しつつあったが、
6世紀にはアラブ人たちは侵入してきたペルシア人の撃退に成功している。
結局7世紀のアラブ人諸部族のイスラーム改宗によってペルシア人植民者は排除された。
なおイバード派の浸透の結果、ウラマーたちによって選ばれるイマームが権力を得た。
イマームの地位は人々のバヤア(恭順の誓い)を受けることによって確立されたが、
これにはすなわちシェイク(部族長)たちの支持を得ることが必要であった。

ブーサイード朝成立以前、歴代のイバード派イマーム国家は5つを数えた。
特に9世紀の最初のイマーム国家はイバード派国家のひとつの理想形となった。

その一方でオマーンは多くの海外勢力によって征服されている。
931-932年、933-944年にはカルマート派によって支配され、
972-1050年にはペルシアのブワイフ朝、さらに1053-1154年にはセルジューク朝の一領土となった。

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セルジューク朝の版図

1154年、ついにオマーン人によるナブハーン朝がオマーンを確保。
1406-1443年の空白期間を除き、ナブハーン朝は1470年までオマーンを支配した。

1515年4月1日マスカットはポルトガル人によって奪取された。
オスマン支配の1550-1551年、1581-1588年をはさんで、
マスカットは1650年1月26日までポルトガルの支配下にあった。
しかし1600年頃から1624年までナブハーン朝は一時的にオマーンの支配権を回復。
この時期のナブハーン朝は第五次イマーム国家『ヤールーバ朝』という名でも知られている。
ヤールーバ朝は1650年に再びマスカットを回復し、
1508年に始まるオマーン北東海岸のポルトガル支配に終止符を打った。

ヤールーバ朝はさらに拡大を続け、東アフリカのポルトガル植民地を奪取して奴隷貿易に参入した。
1719年の王位継承ではサイーフ・イブン・スルタン2世(サイーフ2世)が指名されたが、
これはウラマーたちのあいだに対立を引き起こし、反対するヒナーウィー部族と
サイーフを支持するガーフィリー部族という二大部族の間で内戦が始まった。
結局これら二つの派閥の指導者が戦死したのち、1748年にサイーフ2世は即位した。
しかし派閥の対立は続き、アフシャール朝ペルシアの大いにつけこむところとなった。
1743年、アフシャール朝はマスカットとスハールを占領している。

オマーン海岸はペルシア以外にもいくつかの帝国の支配を受けてきた。
オマーン海岸を支配したこういった海外の帝国は宗教的、民族的な多様性を当地の住民にもたらしたが、
その多くは反乱に苦しむこととなった。一方、オマーン人はマスカットのスルタンとして
ペルシアに対する反乱指導者アフマド・イブン・サイード・アッサイードを選出。
この『マスカットのスルタン』という地位は征服下のオマーンにあって
アッサイード一族の所有するところであった。(原註:ソースの提示が必要)

1744年、ペルシア人はマスカットから放逐され、
アフマド・イブン・サイードがイマームに選出されてブーサイード朝が始まった。
しかしブーサイード朝もまた近親間での抗争や兄弟殺し、王位僭称に悩まされる。
王室の外では、マスカット・スルタンの権威を拒否した内陸の独立諸部族が
ブーサイード朝に対して全面的な反抗を行った。
彼らは(内陸の)イマームを唯一の正統なる指導者として
イマーム国家の復活を狙っては蜂起した。

1783年、アフマド・イブン・サイードの死によって王室の混乱は激しくなり、
それは王朝の二分割に至って決定的になった。
スルタン・イブン・アフマド・アッサイード(サイード1世)(1792-1806)の家系は
名目的な全国の支配権を持つものの、沿海部および海洋の利権のみを得た。
一方、カーイス分家は内陸のアル・バティナおよびアル・ルスタク地方を支配することになった。
サイード・イブン・スルタン・アッサイード(サイード2世大王)の治世(1806-1856)に
オマーンは東アフリカの植民地を開発し、奴隷貿易によって大いに潤った。
19世紀にはオマーンはザンジバル、モンバサ、バルチスタンのグワダル(1958年まで)
を所有する商業的な地域大国として君臨した。
(グワダルについては世界飛び地領土研究会が詳しい。
最近では中国による整備が進み、中国海軍のインド洋基地港として租借構想もあるらしい。
ムサンダム半島ザンジバルもあわせて参照)

しかし1800年代半ば、英国は奴隷貿易を違法であるとして宣言。
オマーンの運命は翳りはじめた。
経済は崩壊し、多くのオマーン人の一族が(丁子栽培で栄える)ザンジバルへと移民した。
マスカットの人口は1850年代から1870年代にかけて55000から8000へと激減してしまった。

サイード2世大王の死はまたも王家の分割を招いた。
王位継承者のスワイニ・イブン・サイード・アッサイード(1856-1866)はオマーンを、
同じくマイド・イブン・サイード・アッサイード(1856-1870)はザンジバルを支配することになった。(註)
一方で内陸のカーイス分家は折々にウラマーたちと同盟してイマーム国家の復活を狙った。
1868年、アッザム・イブン・カーイス・アッサイード(1868-1871)はみずからイマーム位を宣言。
かなりの数のヒナーウィー部族が彼をイマームと認めたにもかかわらず、
民衆は冷淡で、彼をイマームとして選出しなかった。
(註:オマーンの弱体化を狙う英国の差し金と言われている。
この後ザンジバルは英国の保護領として東アフリカ政策の拠点となったが、
1964年に英国から独立するまで同じ保護領であるマスカット・オマーンに上納金を払い続けた)

イマーム・アッザムはオマーンを強力な国家として統一するためには
内陸諸部族のコントロールが必須であることを知っていた。
しかし英国は内陸を支配しようというイマーム・アッザムの試みを邪魔し、諸部族の反乱を助けた。
イマーム・アッザムは武力によってオマーンの統一を目指し、
1870-1871年に反乱を起こしたガーフィリー部族を冷遇した。
そこで英国はイマーム・アッザムの対立者である
トゥルキ・イブン・サイード・アッサイードを財政的・政治的に援助した。
1871年1月、マトラ近郊の戦いでイマーム・アッザムは戦死し、
トゥルキ・イブン・サイードが勝利を収めた。

(この後、英国による保護領化と独立、鎖国、現国王スルタン・カブースによる改革や
イラク戦争との関わりについての記述が続く。
ちなみに海上自衛隊の給油拠点はテロ対策もあって派遣中には伏せられてましたが、
どうやらオマーン本土とオマーン領ムサンダム半島の間にあるフジャイラ首長国(UAEの構成国)だったって話ですね。
もっともUAE諸国も昔はオマーンの属国でしたが)

オマーン君主一覧

上から順に、生没年、名前の表記、能力。
AARに登場した君主には○印と簡単なコメントを付してあります。

15世紀
○マリク

1406-1443
name = "Malik"
DIP = 7 MIL = 6 ADM = 3

インド洋の覇権を握ることを宣言。
カッチ交易地を獲得。
辺境の小国にありがちなことだが、序盤はやる事が限られているので暇だった。

1443-1452
name = "`Umer"
DIP = 5 MIL = 4 ADM = 6

○スレイマン

1452-1480
name = "Sulayman"
DIP = 7 MIL = 6 ADM = 7

大海を越えてジンバブエ遠征を敢行。
金山を求めて見込みのない戦いを続けるうち、オマーンは深刻な内乱に突入。
今思えば、プレイヤーの脳が腐っていたとしか思えない。
このスルタンスレイマン、実は結構能力値が高い。悲劇の秀才王。

●内乱時代

1480-1489
 name = "`Umar"
 DIP = 5  MIL = 4  ADM = 6
1489-1492
	 name = "Muhammaed I"
	 DIP = 7	 MIL = 6	 ADM = 3
1492- 1499
name = "Ahmad"
DIP = 6 MIL = 5 ADM = 4
1499-1500
name = "Abu`l-Hasan"
DIP = 7 MIL = 7 ADM = 5

16世紀前期
○ムハンマド2世

1500-1535
name = "Muhammad II"
DIP = 3 MIL = 4 ADM = 3

内乱を終息させ、技術立国路線に舵を切る。
ヨーロッパ国(ポルトガル)との最初の交戦、インド洋独占の意志を明確化。
AARでは名君のような書かれ方をしているが、こうして並べてみると能力値ヤバイ。

16世紀後期
○バラカート

1535-1560
name = "Barakat"
DIP = 6 MIL = 5 ADM = 6

ガンジス交易地を獲得。
オマーンの政治経済の中心をインドに移そうとして暗殺されたことにされた人。
図に乗って領土を拡張しまくっていた良き時代。

○マフズーム

1560-1615
name = "Makhzum
DIP = 6 MIL = 6 ADM = 4

マラッカ交易地を獲得するも、インド洋戦争でペルシアに完敗。
というか湧きまくる反乱軍とペルシア軍のコンボ、
及び全インド洋にわたる兵員の海上輸送でプレイヤーの戦争疲弊がMAXに達した。
正直ここまで真っ白に燃え尽きた戦争は、ハンザ同盟プレイでの対オーストリア戦以来である。
終戦時「戦争はあかん」と心底思った。

17世紀前期

1615-1617
name = "Nabh?
DIP = 3 MIL = 5 ADM = 7
1617-1624
	name = "`Umayr"
	 DIP = 4	 MIL = 5	 ADM = 5

●ヤアルーバ朝
○ナーシル・アルヤールービー

1624-1649
name = "Nasir"
DIP = 6 MIL = 3 ADM = 7

AGCEEPではホルムズからオマーンに変体できる人。
アレクサンドリア交易地を獲得、インド洋の商業覇権をほぼ握る。
マスカット、ゴア、マラッカといったインド洋の点をチマチマつないでいるうちに、
なんかイスラーム国オマーンというよりも、英東インド会社とか
ポルトガルのインド商務院(Estado da India)プレイをしているような気になってくる。

17世紀中期

1649-1668
name = "SultanI"
	DIP = 4	MIL = 7	ADM = 5

AARには登場しなかったが、オランダに勝てたのはこの人のおかげかも知れない。

17世紀後期

1668-1679
	name = "Abi'l-`Arab I"
	DIP = 4	MIL = 5	ADM = 6

○サイーフ1世

1679-1711
	name = "Sayf I"
	DIP = 6	MIL = 5	ADM = 5

インド帝国を夢見た人。外交がバシバシ決まる。
ムガール打倒は彼なくしては為しえなかった。

18世紀前期

1711-1718
	name = "SultanII"
	DIP = 3	MIL = 4	ADM = 5

サイーフ1世の息子。すぐ死ぬ。

1718-1720
	name = "Muhanna"
	DIP = 6	MIL = 4	ADM = 6

王位僭称者ムハンナ。
能力高いので、どっちかっつーとムハンナさんに王位とってほしいんですが。

○サイーフ2世(サイーフ・イブン・スルタン)

1720-1724
	name = "Sayf II"
	DIP = 3	MIL = 5	ADM = 3

AARではド・グラースと一緒にヤールーバ朝インド帝国を樹立した人。
この王様はとても人付き合いが悪く、属国の離反を防ぐのにとても苦労しました。
ていうか防げなかったのでインド帝国は崩壊しましたw
シーア派、富豪中心主義MAXという状況のもとで
外交官(1人/年)をことごとくムダにしてくれた迷君です。

1724-1728
	name = "Muhammad III"
	DIP = 4	MIL = 4	ADM = 5

18世紀中期
○サイーフ2世(復位)

1728-1742
	name = "Sayf II"
	DIP = 3	MIL = 5	ADM = 3

正直、『もうすっこんでろよ……お前』と思った。

1742-1743
	name = "SultanIII"
	DIP = 4	MIL = 5	ADM = 3
1743-1749
	name = "Abi'l-`Arab II"
	DIP = 4	MIL = 6	ADM = 6

●ブーサイード朝(現王朝)
○アフマド・イブン・サイード

1749-1783
	name = "Ahmad"
	DIP = 6	MIL = 6	ADM = 7
1783-1804
	name = "Said I"
	DIP = 4	MIL = 5	ADM = 6

○サイード2世大王(サイード・イブン・スルタン・アッサイード)

1804-1821
	name = "Said II"
	DIP = 4	MIL = 5	ADM = 5

データは共同統治者のサリム1世なんだけど、
1821までの治世なのでサイード2世とするのが適当なのだ。
ブリテンとの駆け引きの中でオマーンを海洋帝国へと育てた名君。
ザンジバルに王都ストーン・タウンを建設。なんと世界遺産だ。

AARでの記述について

  • 登場人物、団体、事件は現実のいかなる人物、団体、事件にも関係がありません。
  • 通貨D(ドゥカート)は1万ディーナールに換算。
  • CoTは「交易地」、Tradingpostは「交易所」と記述。
  • Art-manufactoryは「マドラサ」、Refineryは「製糖所」と読み替えました。
  • 固有名詞の表記は日本で一般的と思われる読みを採用。したがって英語読みが多くなります。
  • ガレー船は沿岸または小型ダウ、戦艦は外洋または大型戦闘用ダウ、輸送船は単にダウまたは輸送用ダウと表記。

AAR使用画像について

あっちのファインアートにはorientalist paintingというジャンルがあるらしいです。
orientといってもメインはマグレブ、イスタンブール、アレクサンドリア、カイロあたり。
きっと画家が取材しに行きやすかったんでしょうね。
妄想に任せて描いたとおぼしきエロ絵も多く、その嘘臭さがマニア心をくすぐります。
日本人である自分がオリエンタリズムの対象でもあり行為者でもあることを念頭に置きつつ。

(参考)Orientalist Art of the Nineteenth Century
ttp://www.orientalistart.net/index.html
いくつかの作品をAARに使わせてもらっているJean-Leon Geromeという画家は
エロいハレム絵ばっかり描いてるのかと思いきや、なかなか偉い人のようです。
ttp://www.mezzo-mondo.com/arts/mm/orientalist/european/gerome/gerome.html

(参考)joint project of the Historic Cities
(the Hebrew University of Jerusalem and the Jewish National and University Library)
ttp://historic-cities.huji.ac.il/historic_cities.html
15-19cのヨーロッパ人による世界各地の都市図を紹介しています。

15世紀
curier.jpg:Frederick Arthur Bridgeman,The Messenger,1879
astrolabe.jpg:Isfahan, Persia,circa 1850(National Maritime Museum, London)
sultan.jpg:不明
sofala.jpg:Braun and Hogenberg, Civitates Orbis Terrarum,1572
(要塞の旗及びカトリック教会様の建築物をイスラーム風に改変)
guard.jpg:Jean-Leon Gerome, The Guard of the Harlem,1859

16世紀前期
porfleet.jpg:Hendrick Cornelisz Vroom, Ships Trading in the East,1614(National Maritime Museum, London)
carpetmerchant.jpg:Jean-Leon Gerome ,The Carpet Market
covilha.jpg:Jean-Leon Gerome ,Pelt Merchant of Cairo,1869
lisbon2.jpg:Braun and Hogenberg ,Civitates Orbis Terrarum,1572
royalwedding.jpg:M. Eskandary ,Royal Wedding
isfahan.jpg:不明

16世紀後期
panipat.jpg:不明
amirs.jpg:Walter Gould, An Eastern Story Teller, 1871
azhar.jpg:不明
maqha.jpg:Melling,A.I ,Voyage pittoresque de Constantinople et des rives du Bosphor,1819(原画の左半分)
imam.jpg:不明
makhzum.jpg:Jean-Leon Gerome ,Prayer in Cairo(La Priere au Caire),1865
madrasa.jpg:不明

異文化受容におけるイメージ変容

royalwedding.jpg
OR347.jpg

右作品はM. EskandaryのRoyal Wedding(左)を模写したものと思われる。
なぜか熟女化しているが、その理由はあきらかでない。画家の好みであろうか。

オマーンの首都の変遷、有力な地方について

グランドキャンペーン開始時にはオマーンの海岸部はホルムズ王国に服属しており、
イバード派を束ねるイマームは内陸高原の古都ニズワにいました。

どうやら「オマーンの首都」という言葉を堂々と使えるようになるのは
選挙で選ばれるはずのイマームが世襲化したヤアルーバ王朝(17世紀)からのようです。
ヤアルーバ朝はホルムズを駆逐したポルトガルをさらに駆逐し、
アル・バティナ海岸地方のルスタクを拠点としました。

18世紀半ば、現王朝であるブーサイード朝から
やっとマスカットに政治の中心が移ったといえるようです。
なおこのAARでは最初っからマスカットに首都がありますが、
ニズワもルスタクもMuscatプロヴィンス内なんでまあ許してください。
(3/12追記:ルスタクはスハール近郊なので、
初期の首都はAl Kharimプロヴィンスにあると考えたほうがよさそうだ。
AGCEEPでCoTがAl KharimからMuscatに移動するのはそれを反映しているのだろう)

240px-Oman_subdivisions.png
オマーンの行政区分

アル・バティナ (マスカット西方の海岸地方)
西ハジャール山脈と海に挟まれたいかにも良港のありそうな地方。
シンドバッドの出身地として有名な当時アラビア海最大の港市ソハールがある。
ぎりぎりMuscatプロヴィンス? MuscatCoTはたぶんここ。
(3/12加筆:Al Kharimプロヴィンスの首都がSuharなので、
アル・バティナはAl Kharimプロヴィンスの東部というのが正しいようだ。
Al Kharimプロヴィンスの西部はドバイやアブダビにあたる)

アル・シャルキヤ(マスカット東南の海岸地方)
地勢的にはアル・バティナ、マスカット地方の延長。それに若干の内陸砂漠。
MuscatプロヴィンスとMasirahプロヴィンスの東半分に相当する。
ダウ船建造の中心地である港町スールがある。
造船所はここ(の予定)

アル・ダヒリーヤ(中央高原地方、内陸砂漠)
マップ上ではMuscatプロヴィンス。古都ニズワがある。
1913年には英保護下のマスカットスルタン(兼イマーム)政権に対し、
ニズワで別のイマーム政権が樹立されて二政府並立状態になった。

ドファール(ハドラマウト東部)
Dhofarプロヴィンス。
マップ上では港もないし、AARでは「砂漠だらけの」なんて書きましたが……。
実は湿潤なモンスーンのおかげでアラビア半島で唯一ココヤシが群生し、
牛放牧が可能で、ワジがたくさんあって、世界最高品質の乳香を産し、
インドーエジプト航路の要衝サラーラがあるという超優良物件です。
(3/12追記:イェーメンにもココヤシは移植されているらしい)

ちなみにドファールは名君の誉れ高い現カブース国王の出身地です。
19世紀後半ブーサイード朝に服するまではほぼ独立してました。
ドファールはマスカット、ムサンダムと同格の行政府を持っているらしい。
http://www.dm.gov.om/

国内政策

どういうわけか、とりあえずserfdomをマイナスにしてしまうクセが僕にはあります。
理由はわかりません。きっと前世がロシアかなんかの農奴だったのでしょう。

今回のプレイでは弱兵、寡兵、高い安定度コスト、高い疲弊率により
オマーンは「戦えない国家」になってしまっているようです。
特に長期間の戦役には耐えられない感じ。

●はプレイヤーが関心を持つ政策
○は現状維持、またはプレイヤーが無関心な政策
期待しているランダムイベントとコメントを下に添えてあります。

{ year = 1592 month = march day = 4 } 時点(カッコ内はGC開始時の数値)

●aristocracy = 4 (7)
enthusiasm for the navy<6
CoT以外に領土的野心はなく戦争の回数も少ないため、年1人の外交官で足りる。
一方、戦艦はいくらでも欲しい。貿易とインフラ効率のアップにも期待。優先度は低い。

○centralization = 2 (2)

●innovative = 7 (5)
unexpected inventions >6 最優先。全領土に工場が建つ勢いで。
関税と貿易で収入を得る予定なので、改宗による州税増額には期待していない。
同じ理由から植民も行わない。例外は航路確保とヨーロッパ勢力排除のための植民。

●mercantilism = 5 (2)
random explorers <4, navallvl >11
CoTを多く持つので商人増加ボーナス(自由貿易)は不要。
一方、モーリシャスとマダガスカルは確保したいのでランダム航海者にも未練が。 優先度は低い。

○offensive = 5

● land = 2 (2)
enthusiasm for the navy <4
random explorers <4br; 上記の通り

○quality = 6 (2) さすがに陸軍モラルが低すぎるので、プレイヤーが5までは戻した。

●serfdom = 2 (7)
はっきりした理由はない。
生産効率アップへの期待、海軍主義による弱兵を緩和したいという感情が働いているかもしれない。

オマーン、大洋の帝国(オマーン)


添付ファイル: fileomaniflag.png 85件 [詳細] fileomanhis1.jpg 89件 [詳細] file250px-Seldschuken-Reich-map.png 87件 [詳細] file240px-Oman_subdivisions.png 96件 [詳細] file100px-Flag_of_Oman.svg 91件 [詳細] fileroyalwedding.jpg 86件 [詳細] fileOR347.jpg 92件 [詳細]

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Last-modified: 2007-12-21 (金) 21:27:04