決戦から覇権へ

マラッカとの同盟


 アユタヤとの来るべき決戦に備えるため、レ・タイントン帝はマラッカとの同盟を模索します。外交官はマラッカとの関係改善に努め、1488年に軍事同盟への参加を決意させました。

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第三次東南アジア同盟。



タウングー侵攻


 タウングーがアッサム・アラカンとの戦争を長期化させているのを見たレ・タイントン帝は1489年、突如タウングーへ侵攻を開始します。タウングーはアユタヤの属国ですが、一方アユタヤは大越との同盟関係にあります。結局アユタヤは属国への攻撃に参加することになり、タウングーはアッサム・アラカン・大越・アユタヤ・マラッカに袋叩きの状態になりました。1491年、ランパンを大越に、シャンをアッサムに割譲することにより停戦を行いました。これによりタウングーは半ば無力化されたことになります。

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決戦前。



決戦


 1494年、アユタヤがアラカンに宣戦すると、マラッカは軍事同盟から離脱します。レ・タイントン帝は今こそアユタヤとの決戦の時と判断し、軍事同盟を解体した後再びマラッカと軍事同盟締結後、アユタヤに宣戦布告しました。タウングーはアユタヤ側に付いたために、大越、アラカン、マラッカ vs アユタヤ、タウングーの戦いとなりました。マラッカが南部から、アラカンが西部から侵攻すると同時に大越はアユタヤ東部とタウングーへ侵攻を開始しました。アユタヤは要塞化したバンコクを囮にして大兵力を持って大越領内を遊撃しました。大越軍はバンコクとクェーに主力が張り付いたために効果的な迎撃がとれず、国内の反乱も合わさって戦争は思い通りに運びませんでした。また、戦争中にレ・タイントン帝が崩御してしまったのも兵士の士気に響きました。しかし、1497年バンコクが陥落すると戦況は一変しました。手の空いたバンコク攻略隊をアユタヤ軍の迎撃に回し、その他の軍によりアユタヤ全土の占領は順調に進みました。

 1499年、アユタヤは大越の属国となることを了承し、5年に渡る戦いは終結しました。大越は、クェーを割譲させることでアユタヤの国力を削ぎ、来るべき併合に向けて問題の無いように戦後処理を進めました。また、タウングーは終戦と同時に大越へと併合されています。

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決戦後。



覇権へ


 1515年、アユタヤを併合した大越は、最後の仕上げを試みます。レ・トゥオンドゥク帝はマラッカ南方のアチェとの関係改善を行い不安定要因をなくした状態で、マラッカに宣戦を布告します。あらかじめ国境に集まっていた数万の軍隊は迅速に占領を続け、全土を制圧します。マラッカは降伏し、大越の属国となりました。また、同時期に問題の持ち上がったアラカンにも宣戦を布告し、1520年、同じく全土を制圧した後属国としました。この結果国境を接するのはアッサムと明(インドの境に明領が有るためにインドと接しない)となり、大越は東南アジアの覇権を樹立しました。

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対マラッカ戦。



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Last-modified: 2006-06-30 (金) 19:02:04